毒家族に生まれて Vol.10 トルーマン・カポーティ~毒親育ちの少女を救おうとした鬼才作家~
親に捨てられ同性愛者として拒絶された作家は天性の才能で文壇をはみ出し、社交界の人気者となった。“セレブ作家”の呼称を意のままにし、そして最後には社交界からも捨てられたカポーティは、光と影の反対側でひとりの少女を育て上げた。
“アメリカ史上初”とも言われる同性愛小説で若くして成功を収め、50年代からアメリカの社交界で華やかに活躍した“セレブゲイ”の元祖トルーマン・カポーティ。多くのゲイたちにとって、今でも成功の見本ともなっているトルーマンに娘がいたことを知る人は少ない。悲惨な子ども時代を過ごし、決して幸せな私生活を遅れたとは言えない時代を代表する作家が、依存症で亡くなるまでに一人の少女を育て上げた物語。
奇妙な夫婦関係から生まれた孤独な少年
1924年9月30日トルーマン・パーソンズはニューオーリンズに生まれた。母リリー・メイ・フォーク。パーソンズは父の姓だが、彼に関する情報はほとんど伝えられていない。
生まれて間もなく、両親は離婚。父方の祖母たちのいるアラバマ州ジャクソンヴィルの親戚に預けられた。母は親の遺産を継いだ相続人で、ある程度も経済力はあったが上昇志向が強く、なかば「高級娼婦」のような生活をしていた。一方で、父は自分の妻の愛人たちを利用して商売をするという、そもそも奇妙な関係だった。
しかしすぐ、トルーマンは同州内のモンローヴィルへ。親の兄弟と従姉たちに預けられた。そこで2人の女性と生涯に渡る信頼関係を結ぶ。
ひとりは後のピュリッツァー賞受賞作家であり、2歳年下の幼馴染にして永遠の親友となったハーパー・リー。もうひとりはお互いを“バディ”と呼び合った従姉スック。彼女は母親かそれ以上に年が離れていて、乳母のようでもあった。しかしおそらく何らかの発達障害を持っていたスックは「無垢な少女のよう」な存在で、その関係は同じ年の友達のようだったという。
(画像)ハーパー・リー
トルーマンは一向に伸びない身長とは裏腹に、非常に早熟でかなり早いうちから文章を読み解くことができた。ハーパー・リーが名作『アラバマ物語』に登場させた、妄想癖の少年が彼をモデルにしていると言われる通り、スピーチが抜群に巧く多弁で、真実をそれ以上に魅力的に語ることが得意だった。
その明晰さは彼の生涯の魅力となり、美少年ぶりと合わせて多くの人を惹きつける能力を伸ばしていった。いっぽうその知性は、自分が女性に対して性的欲望を持てないということ、それが他と違う隠すべき秘密であることも自覚させた。田舎町で自分の身の置き場のなさを子どもの頃に知ったのだ。
そんなとき、母リリーがまだ結婚している間に知り合ったNYの金持ちホセ・ガルシア(ジョー)・カポーティと結婚し、9歳になる年に引き取られる。こうしてトルーマン・カポーティとなった彼は、10代を富裕層の街アッパー・イーストサイドの両親にとってふさわしい、ポッシュで見た目のよい息子の役を演じることで費やす。
なお代表作『ティファニーで朝食を』の主人公、働かずに金持ち男性を渡り歩いて暮らすホリー・ゴライトリーは母リリーがモデルと言われている。原作の結末はバッドエンドにも拘わらず、映画はハッピーエンドで終わったためカポーティは作品の出来に不満を持っていた。
(画像)カポーティがゴライトリー役への起用を強く望んだマリリン・モンローと
ところが、実生活では養父ジョーも母も他の富裕層と同じく子育てにはまるで興味がなく、海外旅行三昧。トルーマン少年は孤独と向き合い続けた。
田舎とは異なり、当時教養人として認められる全米で唯一の社交場であったNYでの一人暮らしは、早熟すぎる知識人としても同性愛者としても成長することに役立ったものの、孤独を解消する手助けとはならなかった。
そして何よりも彼を孤独にしたのは、母に同性愛者である自分を拒絶されたことだ。学校での教育に退屈さを感じ、17歳にして『New Yorker』編集部のアシスタントとして働き始める。
働きながら編集者に自分の原稿を読ませ、文学の才能を確信した19歳で書き上げた短編『ミリアム』は文壇に驚きをもって迎えられた。
こうして1948年には“米国史上初の同性愛小説”とも呼ばれる『遠い声 遠い部屋』を発表。その赤裸々な内容は賛否両論を巻き起こし、時代の寵児としての栄光を我が物にする。カポーティはその名声を圧倒的な教養と話術でさらに大きくする。NYの社交界に深く食い込んだのだ。母が生涯かけて目指し、結局挫折したその場所に。
閉ざされた世界で、金はあるが圧倒的につまらない男性たちを相手にし続けていた良家の妻や娘たちは、彼の“特殊な”存在の、フレッシュな才能の虜になっていった。10代でデビューした天才作家、あまりに低い背、婚姻歴のある10歳年上の作家ジャック・ダンフィとのスキャンダラスな恋愛関係……。一度は会ってみたいと思わせる要素に溢れていた。
(画像)リー・ラジウィルと
カポーティは多くのセレブリティに囲まれていたが、決して純粋に楽しんでいたわけではない。「僕はフリークだ。僕の姿を見たとき、人はぎょっとする。だから僕はバカみたいに騒ぎ、キーキーとわめいてやるんだ。彼らをバツの悪さから救ってやるためにね」。決して愛されているわけではなく、社交界の“おもちゃ”として認められているだけだとわかっていた。
(画像)ローレン・バコール(左端)と
彼のとっぴな行動や皮肉に満ちた毒舌は生存戦略のひとつに過ぎない。そのうえダンフィとの恋愛は荒れた波のように不安定で、孤独を癒す安定剤となることはなかった。
(画像)サンドラ・ブロック、グウィネス・パルトロウらが共演した伝記映画『Infamouse(原題)』(’06)ではトビー・ジョーンズ(右)がカポーティ、ジョン・ベンジャミン・ヒッキー(左)がジャック・ダンフィを演じた。
知られざる“親”としての素顔
派手な生活、悲劇的な子ども時代、波乱に満ちた愛憎関係、自己演出に長けたリアリティセレブ……。
2019年製作されトロント映画祭でプレミア公開されるやいなや話題となったドキュメンタリー『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』で語られた通り、そんなスキャンダラスな人生の裏で、毒親育ちのカポーティが、ひとりの少女と親子の絆を深めていった事実は、『ティファニーで朝食を』ほどは認知されていない。
(映像)2020年11月6日(金)に世界に先駆けて日本で初公開される『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』は、大統領選挙戦でミシェル・オバマのアドバイザーを務めたイーブス・バーノーが監督した。
次第にアルコールが手放せなくなっていったとき、ある出会いがカポーティに訪れた。
その名はフランクリン・ハリントン。ロングアイランドに住む銀行員で、たびたび妻、そして娘のケイト同席で夕食を一緒にとるなど交流を続けた。しかし実はアルコール中毒者で、同性愛者という共通点をもつフランクリンとカポーティは、一線を越えていたのだ。そしてある日、彼はついに妻と娘を棄て、カポーティのもとへ奔る。
妻子から夫を奪った男としてさぞかし恨まれただろうと考えるのが普通だが、実情は正反対。娘のケイトはインタビューにこう答えた。
実の父以上に“父”になって
「父は本当にひどい人。私にはとても怖い存在だった。小さい頃からアル中の父を世話していて、多くの依存症の親を持つ子供がそうであるように、私たち親子は立場が逆転していたの」「母は経済力がなかったし、私がトルーマンの養女になって引き取られた後、彼とは実の親子のように過ごせたの。とてもやさしくしてくれたし、私に必要なものを与え続けてくれた。父と彼の関係が破局し、私たちを置いてカリフォルニアに去っていった13歳から、トルーマンの追悼式が開かれた24歳まで一度も父とは会わなかった。私は実の父を失い、トルーマンに父親を求めたからこそ、私たちは仲良くなれたの。」
一家の大黒柱がアルコール中毒になったせいで機能不全に陥っていたため、健全な成長ができていなかった娘ケイトをカポーティはマンハッタンに招いた。彼女の肉親である肝心のパートナーが逃げ去った後、それまで築いた人脈を総動員し、娘のキャリアを手助けしたのだ。
「ある日、この人の家に行けと言われので、年頃でデートもしたかった私は『なんでそんなところにいなくちゃいけないのよ!』と文句を言ったの。それでも『絶対に君の人生が変わる人に会えるから』と渋々行った先がC・Z・ゲスト(女優・ソーシャライト)の家だった。そこでダイアナ・ヴリーランド(『ハーパーズ・バザー』ファッション・エディター、『ヴォーグ』編集長を経て、当時メトロポリタン美術館衣装部門ディレクター)だったの。彼女のアシスタントとして働いた1年は人生の中でもっともハードだった。彼女はとっても恐ろしく意地悪な人だったから。でも辛い時期から学ぶことがもっとも有益だとも言うでしょう? その通りだった」。
ケイトはこの経験を経て、見事映画の衣装デザイナーとして大成。『レッドオクトーバーを追え!』などで知られる監督ジョン・マクティアナンと結婚も果たした。
(画像)C・Z・ゲスト(左)とダイアナ・ヴリーランド(右)
「トルーマンは父の事を情熱的に愛していたのね。父が彼を思うよりはるかに強く。だからくっついたり離れたり激しい関係をしばらく続けられたのだと思う」と娘が証言するように、カポーティはフランクリンも娘ケイトも非常に気遣っていた。まるで自分が愛されない分、人に分け与えるかのように。
それは結果的にひとりの毒親育ちの少女を、どん底から救い出すこととなった。なぜ毒親育ちでゲイのカポーティが親として必要な能力を手にすることができたのか。娘の視点からケイトはこう語る。
(画像)ライザ・ミネリ(中央)らとはしゃぐカポーティ(右から2番目)
自分が手にできなかった幸せを与えたい
「これは私の個人的な視点だけど、困難な子ども時代を過ごした人が子を育てるのは時として難しい。でもその分他人に優しい人は多い。トルーマンがまさにそういう人で、センシティビティがあった。自分が手にできなかったものを相手に与えようとする、生まれながらに優しい人だったと思う。あんなに楽しくて、ユーモアのセンスがあって、そして親切だった人はいないわ。私を育てることができたのは、そういった天性の優しさがあったからだったような気がする。」
(画像)現在のケイト・ハリントン
「ひどい状況になる前、あなたをこんなに愛しているのになぜそんなお酒を飲むの? やめてよと言ったことはあった。その時トルーマンがこう言ったのを鮮明に憶えている。『Oh, Darling, if only that was enough(まだ十分じゃないんだ。十分になったらやめるよ)』……。彼は書いている間はシラフだったの。飲み続けては、書き、書き終わったら飲む。癒しのためのお酒だったからピースフルだった。でも(依存症が)もうひとつ別の段階に入ってしまった最後の4年間はさすがに辛かった」。
こうしてカポーティはアルコールと薬物、二重に依存し1984年、同じく毒親育ちのジョアン・カーソン宅で突然60年の生涯を閉じた。
遺品の中にクッキー缶がひとつ見つかった。それは子ども時代あのスックからもらったもの。開けると中にはジンジャークッキーが食べられないまま残されていたという。
(写真)ケイト(左)とグロリア・ソワンソンに挟まれて。1978年、スタジオ54にて
社交界から締め出された最後
自分自身の毒親は救えなかったが、毒親である恋人の子を慈しみ育て、なんとかひとりだけ救い出すことに成功した。それが本望であったのなら、社交界に寄生した稀代のセレブ作家のイメージとは裏腹に、カポーティは自分自身を救うことなしに持てる資産を他の人に捧げた“幸福の王子”だったのだろう。