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フェミ倫! ジェンダー視点でOUTなフランス映画はどれ?
映倫が許しても、フェミ倫は許さない!? 進化の兆しがあるように見えるフランス映画界。でも過去作品は? フェミニズム視点で再レーティング。
<フェミニズム倫理機構(フェミ倫)とは?>
エンタテイメント作品が観客や社会に与える影響の大きさを考えると、フェミニズムの視点はもはや不可欠。
フェミ倫は、映画を取り上げ、フェミニズムの視点から再レーティングするものである。
第二弾はフランス映画の「名作」と言われる作品をピックアップ。カンヌ国際映画祭で史上初、女性監督がパルム・ドールを単独受賞した今、フランス映画(※合作映画含む)におけるジェンダーの扱いについて、少し考えてみませんか?
>フェミ倫第一弾
選考委員[50音順]:Tsukasaさん(『Sister Magazine』編集長・ライター) 中村彩さん(文学博士・リヨン第二大学博士課程在籍) 古舘理沙さん(制作会社社長) Ms.メラニーさん("オスカーウォッチャー")
小山圭一(ELLE DIGITAL編集)
>各委員プロフィールはこちら
・G(General Audience) すべての観客の略号
この区分の作品は、女性やLGBTQ等マイノリティの人権が十分に配慮されており、フェミニズムの観点から大きな問題のない区分である
【G】『裸足の季節』(’15)
論評
トルコ出身の女性監督デニズ・ガムゼ・エルギュヴェンによるトルコ郊外の小さな村に住む5人姉妹の物語。
学校生活を満喫していた彼女たちだが、ある日学校帰りに男の子たちと海で肩車をして遊んでいるところを村人に目撃され、家族に知らされてしまう。
「ふしだらなことをした」という理由で家には鍵がかけられ、彼女たちは閉じ込められる。自然豊かで美しい小さな村は、保守的な思想や習慣が残る、家父長制が深く根付いた相互監視的な社会の縮図なのだ。
彼女たちはそれに全力で抵抗し、自由を求めるが、ひとりまたひとりと村の男性と強制的に結婚させられてゆく。彼女たちの求める自由、都会イスタンブールは村から1000キロ先にあり、物理的にも遠い。
その中でも姉妹は「選択」していく。どうせ逃げられないのならその中でベストを選ぼうとする者、自分を傷つけることで苦しみから逃れようとする者、そして自由を諦めない者。
彼女たちの姿は今この社会を生きる私たちにとって、かなり見覚えがあるものではないだろうか。
この作品の中で家父長制に抑圧されているのは基本的に社会で女性と割り当てられた人たちなのだが、マイノリティが存在しないかのように描かれているというよりは、一例を挙げればシスジェンダー、ヘテロセクシャルの女性/男性しか存在しないようにこの村社会が運営されていることの表れともいえる。(Tsukasa)
予告編
その他の受賞・ノミネート歴:セザール賞4冠、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート(フランス代表)
映倫レーティング:G
・FG12(Feminist Guidance) フェミニストの指導・助言の略号
この区分の作品は、差別的な表現も一部含まれるが、発表の場や製作された時代背景を考慮すると狭範囲であり、フェミニズムに対するリテラシーが求められる。
【FG-12】『黒衣の花嫁』(’68)
論評
ジャンヌ・モロー演じるジュリーは自らの結婚式で、5人の男が引き起こした「事故」により夫を殺された。未亡人となった花嫁は、やがて自らの女としての魅力を存分に用いながら、「事故」の後ものうのうと生き続ける女たらしの5人をおびきだし復讐を始める…。ヒッチコックへのオマージュでありタランティーノの『キル・ビル』をインスパイアしたとも言われるこの殺人劇は荒唐無稽だがとにかく痛快だ。もちろん死んだ夫への愛が彼女の原動力となっていて、女は男への愛のためにのみ物事をなしうるというステレオタイプが再生産されてしまっている点、脚フェチのトリュフォーのカメラがモローの脚(という客体化された身体のパーツ)を映してばかりである点は問題だが、パワフルなヒロインを描いている点は評価したい。特にジュリーが画家フェルギュスのモデルとなり本気で惚れさせつつ復讐を果たす場面は、客体として見られるだけだった女の側からの逆襲を描いているようで痛快。(中村)
受賞・ノミネート歴:米国映画批評会議賞、ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞ノミネート(フランス代表)
映倫区分:なし
【FG-12】5時から7時までのクレオ(’62)
論評
歌手のクレオが癌の検査の結果を聞きに病院に行く日の午後5時から7時までを描いたアニエス・ヴァルダの作品。自分は病気なのかも、という不安に押しつぶされそうになるクレオだが、パリの街中をさまよった後、見知らぬ青年に勇気づけられ結果を聞きに行くことに…。ヴァルダ自身の言葉を借りれば前半のクレオは「他者の視線によってしか自らを規定できない女性」であるのに対し、後半では彼女自身が主体となっていくのだが、その過程がカメラワークで表現されていてフェミニズム的にも秀逸。途中に挿入された、カメオ出演が豪華な無声映画における黒人表象は今だったらアウト。しかし自らの仕事に誇りをもつ女性タクシードライバーを登場させ、男性的とされる職業に女性が就くことを肯定的に描いたり、クレオの親友でヌードモデルのドロテのように自分の身体を見せることをポジティブに捉える女性を描いたりしている点は、70年代以降の女性解放を予感させる。(中村)
受賞歴:フランス映画批評家協会作品賞
映倫区分:G
【FG-12】『幸福』(’65)
論評
ある夫婦とその家族、愛人を中心に、田舎でのゆっくりと幸せな生活が描かれるこのドラマ、女性監督ヴァルダらしい視点が随所にあるのだが、特に顕著なのは、女性を性的対象物とした描写がないことだろう。この作品には女性の裸が何度も出てくるが、そこに無駄なエロティシズムは存在しない。自然な男女の営みとして存在するセックスシーン、庭で団らんしながら母親が無造作に胸を出し、授乳を始めるシーンなど、そこにある女性性は、ありのままの姿だ。妻の仕事にも理解を持ち、率先して子供の世話を手伝う夫の設定に表される、魅力的な男性の解釈も、固定観念にとらわれていないし、そんな「理想的な夫」が観る側の幸福像を大きく裏切る展開も現代的だ。
しかしこの作品には、多様性もない。人種的なことは言うまでもなく、作品の中で語られる「幸福」は、父、母、子が揃った核家族の形成でのみ得られるもの、と言う大前提で、物語もそこに完結する。1960年代フランスを舞台にしていることを、意識した上で鑑賞したい作品である。(メラニー)
受賞歴:ベルリン映画祭銀獅子賞(審査員特別賞)、インターフィルム賞
映倫区分:なし
【FG-12】『死刑台のエレベーター』(’58)
論評
ジャンヌ・モロー演じる社長夫人フロランスと不倫関係にあるジュリアン(モーリス・ロネ)は、共謀して社長である夫を殺すも、犯行後にジュリアンがエレベーターに閉じ込められ、その間に顔見知りの若者カップルがジュリアンの名を騙って別の殺人を起こしたことによって、彼らの完全犯罪計画が狂ってゆく…。その計画を主導し、物語の序盤で文字通り身動きが取れなくなるジュリアンを、夜通し街を歩いて探し、翌朝若者カップルが犯した殺人の容疑でジュリアンが逮捕されると、今度はそのカップルを探し出すなど、終始主体的に行動するフロランスの造形が見事。アルジェリア独立戦争を背景に、武器商であるフロランスの夫を元軍人のジュリアンが殺害するアイロニー、富裕層のフロランスと貧困若者カップルの階級格差を描いており、政治的メッセージと犯罪ミステリーとしてのエンタテイメント性が高いレベルで融合している作品。アメリカの黒人ジャズ奏者であるマイルス・デイビスを音楽に起用しているのは、ジャズがフランスの元植民地ニューオーリンズで生まれたプロテストであることを鑑みるとポストコロニアルであるという批判はまぬがれないかもしれないが、マイナスポイントはそのくらい。(古舘)
映倫区分:G
【FG-12】『ニューヨーク、恋人たちの2日間』(’12)
論評
ジュリー・デルピー演じる主人公のマリオンは恋人ミンガスとニューヨークの家で同棲中。そんな中フランスからマリオンの家族が来て、二人は大忙し...というテンポの良いコメディだ。
マリオンは離婚歴があり、子供がいる。もうすぐ40歳で、大人であることを求められる立場だ。それにも関わらずマリオンは悪趣味な嘘をついたり、幼稚な振る舞いをするし、何度も失敗をする。
それはまるで「完璧な大人の女性」になるのを拒んでいるかのようだ。
最初はマリオンの今までにあまり見たことないダメさ加減に驚いた。だけれど完全無欠でクールな女性が登場する作品もさることながら、こうして女性主人公が失敗を繰り返す様子が描かれる作品も同じくらい大切なのだと気がついた。
だって結局のところ、常に完璧でいることを求められ、女性の失敗が許されない作品や社会はそれがミソジニーである証左だからだ。何度も失敗する女性の姿がエンパワメントである時もある。
それはこの作品を監督したデルピー自身もよく分かっているのではないだろうか。
まだまだ珍しい女性監督作品、そして主役も務めるコメディで制作背景からとてもフェミニズム的だが、保守的な家族の価値観が残っていたり、リアルとも言えるが人種の多様性のなさも否めないのでその点を留意しておきたい。(Tsukasa)
受賞歴:女性映画批評家連盟賞
映倫区分:PG-12
【FG-12】『自殺への契約書』(’59)
論評
レジスタンスのリーダーが仲間の裏切りに遭って殺害されてしまう。誰が裏切ったのか……。戦後、リーダーの恋人・マリ=オクトーブルによって久々に召集された男達の間で犯人捜しが始まる……。冒頭は「紅一点」、「リーダーの恋人」、「命をかける動機が愛した男」などなど、ジェンダー的にはネガティブな要素がてんこ盛り。構図だけ見れば『極妻』。だいたい実際のナチス占領時には女性もスパイとして駆り出されし、女性だけで組織されたレジスタンス組織も存在した。それなのに、無意識にこんな形にしたのだとしたらかなりの問題作。
だが、男たちの腹の探り合いはやがて、「まあ、そういう時代だったし」で済ませようとする懐古主義に浸った男同士の
なれ合いへと転換する。その過程は非常に哀れな光景として描かれ、そんな男性陣の自己憐憫に、唯一の女性が「は? 何言ってんの?」とばかりに終止符を打つ。この展開により「紅一点」は意味を帯びてゆく。
戦争を招いた男性たちは戦後処理を蔑ろにし、多くは責任から逃れた20世紀フランス。そのマチズモの失態に対する批判と捉えると評価が変わる興味深い作品。黒十字軍に敗北しレッド亡き後のゴレンジャーをピンクだけが唯一赦さず、決別するかのような物語は、時代のせいにして不正義をただの過去にしてしまう男社会を断罪する。そんな役割を女性キャラに担わせるのもまた都合のいいジェンダー・ファンタジーのひとつであり、そこに一定のリテラシーは必要ではある。が、リーダーなき後その場を仕切る「ゴレンジャーのブルー(もしくはブラック)」的賢人すらも男の愚かしさを露呈するラストに、マチズモが引き起こす戦争を絶対に正当化しない覚悟を感じる。(小山)
映倫区分:なし
・R18(Restricted)観覧制限の略号
この区分の作品には、許容し難いマイノリティ差別、男性中心の世界観、異性愛至上主義といった表現が含まれており、男尊女卑の悪癖を自覚する成人のみがファンタジーとして観覧すべき
【R-18】『エル ELLE』(’16)
論評
自宅に入った暴漢にレイプされた主人公ミシェルは、被害者として生きていくことを受け入れない強い女性、と言ったまやかしフェミニズムを謳う評論が目立ったこの作品、実際にはただの男性目線で描かれた、ファンタジーでしかない。ミシェルをはじめ、作品の核を担う女性の登場人物は、美容整形と若い男に夢中になるミシェルの母や、ヒステリックな息子の嫁など、過剰な演出にまみれ、ミシェルの異常性は猟奇殺人犯であった父親の影響と言う、安易な固定観念で語られる。感情移入できる女性登場人物が一人も存在しないことにも驚くが、もう一つ特筆すべきなのは、有色人種の不在だ。唯一登場する息子の親友役は、赤子の父親を色で見分ける手段として、いわばプロップ的に配役されており、それ以外に有色人種は登場しない。2016年度のセザール賞、アカデミー賞など数々の賞レースを賑わせた、いわゆる「名作」に位置づけられる作品であればこそ、前提にある根深い差別が、作品全体から出る違和感の根拠であることを、認識しなくてはならない。(メラニー)
受賞歴:セザール賞作品賞、主演女優賞、ゴールデン・グローブ作品賞、主演女優賞、女性映画記者連盟賞
映倫区分:PG-12
【R-18】『シェルブールの雨傘』(’64)
論評
雨傘店の17歳の娘ジュヌヴィエーヴと20歳の自動車整備士のギイは結婚を誓うが、時はアルジェリア戦争真っ只中の1957年、ギイは2年間の兵役へ行ってしまう。その後妊娠が発覚するジュヌヴィエーヴだが、戦地のギイは消息を絶ってしまう一方、彼女には裕福な宝石商カサール氏との縁談が入ってくる。惨い時代の若者の悲恋を描いた物語と衣装やセットのポップな色使いが対照をなす、全編台詞なし・歌のみの言わずと知れたジャック・ドゥミのミュージカル映画だ。自らの愛を貫けないジュヌヴィエーヴは意志薄弱で人の言うなりだが、この時代のフランスでは中絶はおろか避妊も違法だったこと、未婚のシングルマザーの諸権利など当然認められていなかったことを考えれば、彼女の選択もわからないではない。しかしこうした背景知識なしに見てしまうと、自分の意志にもとづいて行動することのできない、状況に翻弄されるだけの女性像を美化しているようにも見えるため要注意。(中村)
受賞歴:カンヌ国際映画祭グラプリ
映倫区分:G
【R-18】『勝手にしやがれ』(’60)
論評
ジャン=リュック・ゴダールの長編監督デビュー作にして、ヌーヴェル・ヴァーグの金字塔。新聞を売りながらシャンゼリゼ通りを闊歩するパトリシア(ジーン・セバーグ)とミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)は、60年以上経ったいま観ても痺れるほどスタイリッシュ。だが。ソルボンヌ大学に留学中ながら、ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙で記者も任されるパトリシアと(そう、彼女はただの新聞売りではない)、成り行きで人殺しをして逃げているチンピラのミシェルという人物設定は、当時のアメリカ・フランス間の経済および文化資本における圧倒的格差を投影している。ショートカットにパンツスタイルの”先進的な女性”パトリシアをミシェルが徹底して性的客体化するのも、パトリシアに「◯○(フランス語)ってどういう意味?」「(言っていることが)私には分からない」と繰り返させてバカ扱いするのも、フランス→アメリカへのマウンティングのつもりがただのミソジニーに。最終的にはパトリシアになんだかよく分からない理由でミシェルを裏切らせ、「おまえ、本当に最低だな」と罵声を浴びせるだけでなく、「“最低”ってどういう意味?」と聞き返させる。女は知性よりも性的魅力、女は気まぐれに男を裏切る、というファム・ファタル幻想がその後フランス映画の女性表象に与えた影響を思うと当作品の罪は深い。(古舘)
受賞歴:ベルリン映画祭銀獅子賞
映倫区分:G
【R-18】『ベティ・ブルー〜愛と激情の日々〜』(’86)
論評
R-18の作品は、女性の表象自体に問題がある場合と、女性表象の消費に問題がある2パターンあり、この作品に関しては後者。ジャン=ユーグ・アングラード演じるゾルグの小説家としての才能を、作中で唯一見抜いた慧眼と、それを世に出そうとする本人以上の情熱と行動力を持ち、自身やゾルグの尊厳を踏みにじられたときには(ゾルグがそうするようにヘラヘラと受け流したりせず)相手に怒りを表明し、きちんと立ち向かう勇敢な女性ベティに対し、彼女の性的な面しか評価せず、彼女の言葉を信じず、言葉を信じてもらえないがゆえに暴力的な手段に出たら彼女を狂人扱いし、妊娠し母親になることを許さない。なぜなら彼女は知性よりも性的魅力を求められる”娼婦”だから。その“真実”に気づいたベティはオイディプス王よろしく自ら目を突き、精神病院へ入れられる。投薬によって”穏やかになった”ベティを、「こんなのベティじゃなーい!!」という身勝手な理由で殺害しながら、捕まることなくしれっと小説家になるユーグ。それ、ベティがタイプライターで清書してあらゆる出版社に原稿を送ってくれたおかげでしょうが。こんなストーリーを「美しくも儚い伝説の物語(日本語版DVDパッケージより)」として消費するグロテスクさ。ベティを殺すために精神病院へ忍び込むゾルグが女装しているのも、トランス排除が全世界的に問題となっている現在、R-18どころか上映禁止を訴えたいくらい。(古舘)
受賞・ノミネート歴:セザール賞ベストポスター賞、米アカデミー賞外国語映画部門ノミネート
映倫区分:R-18
[委員プロフィール 50音順]
Tsukasa(つかさ)/『Sisiter Magazine』編集長 米国にて映画制作を学び帰国。フェミマガジン『Sister Magazine』を立ち上げ、編集者・ライターとして活動する。
古舘理沙(ふるたち・りさ)/冬夏株式会社 代表取締役社長 『VOGUE』『GQ』の編集者を経て、落語や講談といった寄席演芸のプロデューサーとして活躍し、現在は制作会社を経営。制作を手がけたYouTubeチャンネル「伯山ティービィー」は第57回(2019年度)ギャラクシー賞を受賞。現在「さよなら、パリジェンヌ」連載中。twitter @risafuls
中村彩(なかむら・あや)/研究者。専門はボーヴォワールを中心とする20世紀フランス文学・思想、フェミニズム、フランス地域研究。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学、現在リヨン第2大学文学部博士課程在籍。twitter @LaSyrinx
Ms.メラニー(みず・めらにー) / 映画会社に長年勤務しながら、“オスカーウォッチャー”として知られる。高校時代からアカデミー賞授賞式を鑑賞し始め、受賞予想を約20年間継続。その予想は各メディアからひっぱりだことなっており、毎年受賞作品を的中させることから「予想屋」というあだ名も……。著書に『なぜオスカーはおもしろいのか? 受賞予想で100倍楽しむアカデミー賞』(星海社新書)など。twitter @mel_a_nie_oscar