イギリスのロイヤルファミリーが毎日ニュースを賑わせているけれど、華やかさと事件の多さでは負けないのがモナコ公国のロイヤルたち。そこで今回はモナコ公室について知っておきたい9つの事実をピックアップ。
アルベール2世は世界のロイヤルも羨むほどの大富豪
サイト「ビジネスインサイダー」によるとモナコは世界でも有数の富裕国。人口の32%に当たる12,261人が100万ドル(約1.1億円)以上の資産を持っているそう。中でも特にリッチなのは現在の君主であるアルベール2世大公。雑誌『フォーブス』によると資産額は10億ドル(1,100億円)! モナコ国内やフランス、そして母のグレース公妃の故郷であるアメリカのフィラデルフィアに所有する不動産、父のレーニエ大公から相続したアンティークカーのコレクション、モナコ公国でカジノ経営の独占的権利を持つ企業ソシエテ・デ・バン・ド・メールの株が主なもの。エリザベス女王の資産が5億ドルだと聞けば、アルベール2世がいかにお金持ちかがよくわかる。
アルベール大公とシャルレーヌ公妃の結婚式は70億円超え
そんなリッチなアルベール2世だから2011年にシャルレーヌ公妃と結婚したときは超豪華にお祝い。新聞「ロサンゼルスタイムズ」などによると世界各国の王室のウェディングの中でも最もゴージャスなものの1つとして歴史に残るほど。なんと3日にわたって行われ、かかった費用は7,000万ドル(約77.5億円)。新聞「デイリーメール」によると公妃のウェディングドレスは制作時間2,500時間で2万個のパール、3万個のゴールドのストーン、4万個のスワロフスキーで飾られていたという。世界各国の王室・皇室からはもちろん、ジョルジオ・アルマーニ、カール・ラガーフェルド、ナオミ・キャンベルら世界のVIPが勢揃いした。
シャルレーヌ公妃はオリンピックを捨てて公妃に
アルベール2世とシャルレーヌ公妃が出会ったのはモンテカルロで開催された水泳大会。シャルレーヌ公妃は南アフリカの競泳選手として活躍、1996年に南アフリカの選手権で金メダルを3つ獲得、2000年にシドニー五輪に出場するという実力の持ち主だった。五輪と同じ年モンテカルロで開催された水泳大会で2人は知り合う。でもすぐには交際には発展せずデートを始めたのは2006年。その年の冬に開催されたトリノ五輪で2ショットを披露、関係を公にした。その後すぐにシャルレーヌ公妃は競技界を引退、モナコに移住しチャリティ活動に専念。2008年の北京オリンピックへの出場資格も持っていたがそれを捨てて公妃になる道を選んだ。
結婚式直前に新たな隠し子が発覚
アルベール2世に2人の隠し子がいるのは有名な話。独身時代に関係を持ったアメリカ人の元ウェイトレスのタマラ・ロトロとの間に娘ジャズミン・グレース・グリマルディ、トーゴ出身の客室乗務員のニコル・コストとの間に息子アレクサンドル・グリマルディ・コストが生まれ、それぞれ認知している。ちなみにジャズミンは女優としてデビューしている。(続)
(写真は一緒にレセプションに出席したジャズミンとアルベール2世)
でもなんとシャルレーヌ公妃との結婚式の数日前に3人目の隠し子の存在が浮上! 関係者は新聞「ロサンゼルスタイムズ」に「公妃にとってはまさに悲劇だった。アルベール2世は恐怖に震え上がっていた。外部のものにも緊張が伝わってくるほどだった」。シャルレーヌ公妃が結婚式をキャンセルし南アフリカに帰ろうとしているという噂も流れたが公室はこの報道を否定。2人は結婚、結婚式の豪華さで隠し子の噂は無事に(?)自然消滅した。
アルベール2世の独身生活が長すぎて法律改正
シャルレーヌ公妃と結婚したとき、アルベール2世はすでに53歳。隠し子には公位継承権はないため、このまま大公が結婚せず子どもも生まれなければ公室の存続に関わる問題になるとモナコ政府は危機感を覚えていたという。そこで政府はアルベール2世のために2002年に法律を改正。それまでは「君主の直系の子孫(つまり大公の子どもや孫)が公位を継承する」と決められていた。そのためアルベール2世が即位した時点で姉のカロリーヌ・ド・モナコ(右)と妹のステファニー・ド・モナコ(左)は公位継承権を失っていた。でもこの改正で「大公に子どもがいなければ大公の兄弟姉妹、もし兄弟姉妹が亡くなっていればその子孫が王位を継承する」と変更。直系の子孫でなくても公位につけるようになった。
「幸せな結婚ができない」という呪いがかけられている
法律改正したけれど、アルベール2世とシャルレーヌ公妃の間にはガブリエル公女とジャック公子という双子が無事誕生。隠し子騒動にも負けず幸せなロイヤルファミリーを築いている。でもモナコ公室の歴史を見ると、こんな円満家族はレア。アルベール2世の父レーニエ3世は妻グレース公妃を52歳の若さで自動車事故で失っている。レーニエ3世とグレース公妃の長女カロリーヌ・ド・モナコは21歳のときにフランスの銀行家と結婚したが離婚。実業家ステファノ・カシラギと再婚するがステファノはボートレースの事故で死亡。1999年にハノーファー家のエルンスト・アウグスト5世と3度目の結婚をするが不仲になって現在は別居中である。
(写真はカロリーヌ・ド・モナコとステファノ・カシラギ)
次女ステファニー・ド・モナコはボディガードのダニエル・デュクリュエと結婚したが1年で離婚。次にサーカス団員と駆け落ちまでして結婚したが彼とも離婚してしまった。
実はロイヤルファミリーが幸せな結婚に恵まれないのは呪いのせいだとモナコ国内では言い伝えられている。その起源はなんと13世紀! 当時の大公レーニエ1世は美しく若い女性を見初め、誘拐して無理矢理自分のものにしてしまう。女性は復讐心から魔女になり「グリマルディ家は末代まで幸せな結婚ができない」という呪いをかけたとか。
(写真はステファニー・ド・モナコと最初の夫との間に生まれた娘ポーリーヌ・デュクリュエ)
レーニエ3世とグレース公妃の間にも確執があった
アルベール2世の両親であるレーニエ3世と女優のグレース・ケリーの結婚生活も決して順風満帆ではなかったという。2人が出会ったのは1955年のカンヌ国際映画祭。当時のグレースは1954年にアカデミー助演女優賞にノミネート、1955年にアカデミー主演女優賞を授賞するというハリウッドを代表する女優だった。しかし1956年のミュージカル映画『上流社会』を最後に、キャリアも名声もすべて捨ててモナコ公妃になった。でも結婚から10年経った頃、夫との距離が広がっていた公妃は女優に復帰したいと望むように。1964年、アルフレッド・ヒッチコック監督からサイコスリラー映画『マーニー』のオファーを受けたとき、公妃はこの話に心を動かされた。でもレーニエ3世はこれに猛反対(ちなみに国民も大反対したそう)。公妃がスクリーンに復帰するのを許さず、このことで2人の関係はさらに冷たいものになったと言われている。
レーニエ3世はハリウッドセレブを妃にしたかった
でもレーニエ3世が女優を嫌っていたかというとそうではない。レーニエ3世とグレース公妃の結婚生活を書いた著作『Once Upon a Time: Behind the Fairy Tale of Princess Grace and Prince Rainier(原題)』によると「妻を持ち、子孫を残すことが大公としての最重要責務」と教えられて育ったレーニエ3世は自分の妻にふさわしい女性のリストを作り、お妃探しに余念がなかった。リストの中にはエリザベス女王の妹マーガレット王女もいたものの、あとはフランス出身のジゼル・パスカル、アメリカ出身のエヴァ・マリー・セイントにナタリー・ウッドと当時の人気女優がずらりと並んでいたという。(続)
つまりレーニエ3世は有名女優にターゲットを絞って婚活していたというわけ。リストの1人ジゼル・パスカルとは交際し結婚目前と報じられたことも。しかしレーニエ3世の姉アントワネット公女が自分の息子を公位につけようと「ジゼルには子どもが産めない」という噂を広めたためにレーニエ3声は結婚を断念した。
レーニエ3世が女優と結婚したがったのはギリシャの実業家でジャクリーン・ケネディと結婚したアリストテレス・オナシスの助言がきっかけ。オナシスは冗談まじりに「ハリウッド女優と結婚すれば、モナコ公国の知名度が上がる」とアドバイス、モナコを有名にしたいと思っていたレーニエ3世はそれを実行に移したという。
(写真はジゼル・パスカル)
グレース公妃とダイアナ元妃はお互いに共感していた
1981年にチャールズ皇太子と婚約したダイアナ元妃。発表直後にイギリスで開催されたあるレセプションでグレース公妃と対面している。ダイアナ元妃がマスコミからの注目と着なれないドレスに居心地が悪そうにしているのを見たグレース公妃は「心配しないで。これからもっと悪くなるから」と慰めた。もちろん冗談半分であるが、すでに30年以上マスコミの目に晒されていた公妃は半分本気でそう思い、これから同じ道を歩む元妃に同情して言葉をかけたと見られている。その翌年、グレース公妃は事故で帰らぬ人に。新聞「デイリーメール」によるとダイアナ元妃は葬儀に出席、公妃の娘のカロリーヌ・ド・モナコに「グレース公妃とは精神的に繋がっていた」と伝えていたという。