米国史上初めて「有給の職を持つファーストレディ」になるであろうと目されるジル・バイデン。決して「政治家の妻」としての王道=“グッドワイフ”にならなかった彼女の人生には、自分の存在を恨んだひとりの女性の影が落とされている。
決して仕事を辞めない政治家の妻
在任中“グッドワイフ”から脱出したファーストレディは、エレノア・ルーズベルトが思い浮かぶが、来年グッドワイフにならずバッドライフも送らなかったファーストレディとなりそうなのがジル・バイデンだ。
彼女は決して夫の仕事のために自分のキャリアを犠牲にすることはなかった。
(画像)1987年チャリティ・ディナーにて
生まれてこなければよかった娘
ジル・バイデンは生まれてくることを望まれていなかった子だった。あるひとりの女性に。
それは彼女が「Ma Godfrey」と呼ぶ母方の祖母。比較的裕福な家庭だった母ボニー・ジーンは、貧しいイタリア系移民の一族である労働者階級の父ドナルドとの結婚したが、祖母は激しく反対していた。
そのうち音を上げて別れるだろうと踏んでいたが、ふたりの絆は強く、祖父母が墓参りをしている間に結婚式を挙げてしまう。
娘の裏切りに失望した祖母は結婚後も「娘をそそのかした分相応な男」との離婚を望み続けた。そのため長女ジルが生まれたことはひどい落胆の種になったのだ。子がかすがいになってしまう……と。
(画像)1987年息子ボーとハンター、そして娘アシュリー
祖母にいじめられた孫ジル
両親は次々生まれる妹たちの世話もあり、ある程度成長すると週末ごとにMa Godfreyにジルを預けた。そこで祖母はジルを飯炊き要因として扱った。決してくつろぐことを許さず、 掃除や皿洗いなどの家事の手伝いをさせたのだ。それが上手くできないと、他の眼がないところで折檻することもしょっちゅう。そしてことあるごとに不満をもらしたという。「あの男(ジルの父)に似ているね。おまえはゴッドフリー家の人間じゃない。おまえさえ生まれてこなければ」と。
(画像)1987年9月ジョー・バイデンの大統領候補者指名争い撤退の記者会見にて。この4か月後脳動脈瘤破裂でジョーは危篤状態にまで陥る
父の娘
しかし無力な母親は、そんな自分の母に対して何ら対策をとらなかった。ムリに結婚した手前、そして子育てを手伝ってもらっている手前、口を出せなかったのだ。そして結婚を理由にせっかく通っていたカレッジをさっさと辞めてしまったたその負い目もある。
娘である自分を救わず、一家の金銭的苦境を助ける経済力もない。ジルは何もできない母親に無力感を感じていく。
さらに成長し、Ma Godfreyではなく、父方の祖父母の家に寄り着くようになったジルは、労働者として汗水を流しながら働き、孫娘たちを分け隔てなく愛するもう一人の祖母を手本に育つ。働いて、自分のお金を自分で稼げば、自由になれると。
(画像)2008年8月大統領選民主党大会にて
労働こそ生きる糧
ジルは15歳からアルバイトを始める。それは決して自分のおこづかい欲しさからではなかった。学校に通うためだ。
高等教育を受けるためには、家庭の収入では足りない。ウェイトレスをはじめあらゆる仕事で教育費を稼いだ。大学進学と同時に家を出るためにも、生活費も住む場所も確保しておかなければいけない。
そんなときカレッジの進学とともに、身近な男性と結婚を決める。それが最初の夫となったビル・スティーブンソン。
しかしその結婚はすぐにうまく行かなくなった。夫は学生でありながら休学してバーの経営に乗り出し、成功させた一種の起業家。しかしその分、家事はジルに任せきりになり、ときにはバーの仕事すら手伝わせることも。
短期大学の勉強が仕事を見つけるためには役に立たないと感じたジルは、挙式する頃には退学し、デラウェア大学で英語教師になるための勉強を始めたのだが、しかし、ジルは仕事をしながら大学に通い、家に帰れば家事をこなす日々。すぐに学業に手が回らなくなる。専業主婦女学生になればよかったのかもしれないが、誰かの経済力の傘下に入ることの恐怖は、母親を見て知っている。ジルは決して自分の仕事を手放さなかった。
こうしてふたりの結婚生活は破綻していき、ジルは復学した。
残念なことに夫は彼女の家庭への貢献を省みるような人間でもなかった。もし彼女の家事が財産を作る過程に繋がっていることを考慮できる知的な人間だったなら、結婚生活はもう少し続いていたかもしれない。でも起業して稼いでいるような人間が、家事の金銭的価値を計算することは難しい。証拠に、夫は離婚時財産、とりわけ会社の権利の分与を拒否し、ジルが勝利するまでかなりの時間がかかった。
(画像:1987年大統領指名候補戦にて)
運命の男性ジョー・バイデン
夫がサポートしていた政治家ジョー・バイデンと出会ったのは、ちょうど結婚生活が破綻し、ジルが大学を卒業しようとしていたころ。妻と子どもを不幸な事故で亡くし、遺された2人の息子をシングルファザーとして育てていたジョー。
働き者のジルとジョーは気が合い、最初の夫との離婚後、プロポーズされたが4回も断ったという。そこには母になる恐怖があった。
子どもの頃自分を否定する人間から守ってくれなかった母ボニー・ジーン。自分も母のようになるのではないか。そう恐れていたのだ。それは親になることへの強すぎる責任感のせいともいえる。
「私はその頃、2人の息子たちとも仲良くなっていました。もし私たちの結婚が、(私の最初の結婚のように)上手くいかなくなってしまえば、息子たちは2度も母親を失うことになる。それは絶対に避けたかったのです」
ジルが若い身空で苦労をしていたとはいえ、出会ったときは24歳。突然子ども2人の母親と上院議員の妻、そしてバイデン一家の顔になることは重圧だった。そのうえ、ジョーの政治的右腕でもあった妹ヴァレリーのお眼鏡にも適わなければいけない。様々な重圧もあったが、何よりも恐れたことは、自分の人生がジョーの人生に巻き込まれてしまうことだった。それはジルのこんな言葉に表れている。
「私たちふたりの関係性が私の人生に関わるというより、バイデン一族に引き込まれていくのを感じていました」。
自分自身をコントロールしたい
そして最初の結婚で打ちのめされた経験から、完璧主義者で子供の頃から人前で泣くことすらなかったジルは、自分自身をコントロールできなくなることに、より一層の恐れを抱いていた。ジョーとデートし始めたころにようやく8・9年生の英語教師として手に職を付けたのに、それも手放し、お気に入りのアパートも引き払い、政治家の妻としてパブリックイメージを気にして生きなければいけない。
結婚を意識した頃には「自分の仕事やスペースに関してはこだわらなくなっていた」と語っているが、それはあくまで「ジョーが自分の職業を尊重し、博士号の取得も応援してくれると確信するようになった」から。そして最後のプロポーズの後、こう宣言したから。
「約束する。君の人生は変わらないよ」
これには息子2人の後押しがあったという。
「ボーとハンターがバスルームにいたジョーに突然近づいてこう言ったそうなんです。『ボクたちはジルとけっこんするべきだと思う』って。結婚後にこれを聞いたときには爆笑してしまいました」。
1977年、ジル・バイデンとなった後、夫婦には女児が誕生する。その後の産休・育休を除き、ジルは教師として働き、修士号を取得するなど、学び働き続け現在は博士号を持ったドクターとして教壇に立って仕事をしている。もちろん有給だ。
政治家の妻となり、亡き妻と比較されて落ち込むことがあってもジルは好きな仕事で自信を回復できた。慣れないチャリティや選挙のスピーチで散々こき下ろされても、生徒たちの前で教えることで、失敗も大したことがないと思えた。あらゆる思惑が錯綜する政治の世界でも、自分でいられたのは自分自身の仕事があったから
(画像:ソーシャルワーカーとなった娘のアシュリー)
夫がいつ職を失ってもいい
また彼女に経済力があることは、ジョーにとって大きな支えになったことは間違いない。いつ政治家をクビになっても、ジルの収入はある。食べていけないことはないのだから。
(画像:2019年デラウェア・メモリアル・デーにて)
ジルが大統領選に最初に出馬したとき、撤退したとき、再びのそれを体験した時も、ジョーが突然襲われた病であやうく子どもたちを残して天に召されかけたときも、息子のボーが早逝したときも、決してジルは涙を見せなかったし、たじろがなかった。それはジルが決してただの“政治家の妻”には収まらなかったおかげだ。
(画像:2015年息子ボーの葬儀にて)
政治家の妻としてグッドワイフになることを拒否した結果、妻として女性としてバッドライフを送ることもなかった稀有な次期ファーストレディ。
新しい大統領の妻像をどう見せてくれるのか。彼女の「これから」から目が離せない。
(画像:2020大統領選にて)
【関連記事】
Vol.1 ミシェル・オバマ
Vol.2 エレノア・ルーズベルト
Vol.3 コレット
【参考文献】
『Where the Light Enters: Building a Family, Discovering Myself』by Jill Biden
『JOEY: The Story of Joe Biden』by Jill Biden
『The Things That Matter In Life: The Collected Words of Dr. Jill Biden as Second Lady of the United States』Progressive Press