アカデミー賞に必要なのは「多様性」を求める新基準ではなく、考え方の変革である
’24年のアカデミー作品賞の選考より適用される「多様性」追求のための新基準について、その懸念事項と米アカデミーが本質的に取り組むべき課題についてUS版『ELLE』が考察。
今秋、アメリカの映画芸術科学アカデミーはアカデミー作品賞の選考基準として新たに「多様性」の項目を含めることを発表した。女性やLGBTQ、人種的/民族的マイノリティー、障がいを持つ人などに焦点を当てたこの新基準は2025年に開催される予定の第96回アカデミー賞から適用されることになる。映画自体の出来に関わらず適用されるこの新基準の懸念事項について、そして映画産業における芸術と科学の発展を図る米アカデミーが本質的に取り組むべき課題についてUS版『ELLE』が論考した。
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アカデミーが包括性と成果主義の格差を埋めるように前進しているというのは幻想にすぎない
米アカデミーは常々自らに悪影響を及ぼしてきた。近年の『パラサイト』や『ブラックパンサー』、『ROMA/ローマ』などの受賞によって、アカデミーが包括性と成果主義の格差を埋めるように前進しているというのは幻想だ。今秋、彼らは2024年から作品賞の選考に、人種やジェンダー、セクシュアリティ、セクシュアル・アイデンティティー、障がいなどに基づいた表現基準を満たしているかどうかチェックすることを義務付けると発表した。しかし、もしも映画が素晴らしいものであるなら、この要求を満たさなくても、選考作品として認められるべきではないだろうか。
写真/第91回アカデミー賞授賞式に出席した『ブラックパンサー』のキャストたち
アカデミー賞は何光年も遅れている
先日行われた、アカデミー賞の前哨戦とも言われているゴッサム賞のノミネート一覧を見てみよう。彼らは多くの才能を取り上げていた。長編映画賞ノミネート作品には女性監督による映画が複数含まれていたし、ニコール・べハーリーやリズ・アーメッド、ユン・ヨジョンといった人種マイノリティーに属する俳優が名を連ねていた。そして何よりも、この才能は表彰すべきである、という但し書きはそこには添えられていなかった。
一方のアカデミー賞の方は何光年も遅れている。これは、その93年間の歴史を通じて問題とされてきた。しかし、この問題が特に今になってもどかしい感じがするのは、現実世界の多様性を反映した作品が候補になるのは当然であるという文化的評価についての多くの議論が近年さんざんなされてきたからだ。実際、米アカデミーは過去3年間で健康体の白人男性という選考メンバーの偏りを減らすために2,688人もの新会員を迎え入れている(しかし、2020年1月の時点で依然としてアカデミー会員の84%が白人で、68%が男性である)。
依然として残り続ける、「考え方自体」という大きな問題
多様性の義務化を設けることは、「考え方自体」という大きな問題の追求を避けるための小さなバンドエイドに過ぎない。団体としてのハリウッドは、自分たちが均質的なレンズの外にあるものは自動的に劣っていると見ていることを認めようとしない。1993年に『マルコムX』を差し置いて作品賞にノミネートされた5作品が白人男性優位のものだったという現象などは、その他の多くの例のなかでも、このことを如実に表している。そのため、2024年の作品賞候補作品がそのダイバーシティーの達成度で選ばれて、その作品の出来では選ばれないだろうというのは想像に難くない。
オスカー女優のヴィオラ・デイヴィス(写真)は昨年、インクルージョン・ライダー(包摂条項)(※)について質問され、「私は人々に、私を見なさいと強制するようなものには関わりたくないと思っています」と答えた。彼女はそうすることで、人々がアーティストの真価を貶めていると確信しているのだ。2020年にもなって、人々が他の視点や物語に注意を払うべきだということを意識しなくてはならないという事実は我々をどっと疲れされる。それは才能ある人々にとっては、簡単に士気を落とすものになりうるだろう。新基準が発表されてから1日もせずに、長年アカデミー賞の選考委員を務めている女優のクリスティー・アリーがそのことについてツイッターで怒りを顕わにしたがどうしようもなかった。「『作品賞』を評価するための“ルール”は専横的であり……反アーティスト的。ハリウッドは左に寄り過ぎて駄目になっている」
※俳優が出演契約を結ぶ際に職場の包摂性を確保するために設ける付帯条項。
新たに設けられた “ルール”は、非常に基本的なもの
公平を期して言えば、これらの “ルール”は、物事の大きなスキームのなかでは非常に基本的なものだ。映画は4つの包括的なスタンダートA~Dのうちの2つを満たす必要がある。そのうちの1つ、スタンダードAでは「画面上の表現、テーマ、物語」に関して、映画は以下の3つの要件のうち少なくとも1つを満たすことが求められる。主演俳優や重要な脇役のうち少なくとも1人は代表的でない人種や民族の出身者であること、その他のキャストの30%が代表的でないグループ(女性、LGBTQ+、少数民族、認知・身体障害者、聴覚障害者など)の出身者であること、あるいは映画のあらすじや主題がこれらのグループを中心としていることだ。
最も多項目に渡る要件となっているのは、スタンダードBの”制作におけるリーダーおよびプロジェクトチームのメンバー “に関する部分で、そこに数えられている現場の主要陣14人には、監督、脚本家からヘアスタイリスト、撮影監督までが含まれている。そして、そのメンバーのうち最低でも2人が女性や、マイノリティの人種・民族の出身者、LGBTQ、障がい者でなければならないとされている。とはいえ、これらの要件はあまりにも単純なものであり、アカデミー史上のほとんどのノミネート作品や受賞作品はこの基準に合致しており、その中にはアカデミー作品賞受賞で異論噴出となった『グリーンブック』でさえ含まれている。
ハリウッドが好む「多様な」物語には偏りがある
その事実はこの問題に複雑な分岐点をもたらす。すなわち、ハリウッド作品で我々が目にする「多様な」物語の種類についてだ。米アカデミーは、自分たちがどのような多様性を好むかを繰り返し示してきた。『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』、『ドライビング Miss デイジー』、『風と共に去りぬ』など、どれもそれぞれ「多様性」を備えているが、黒人の奴隷制度や白人のフェミニズムなど、全てハリウッドのお気に入りのテーマばかりだ。
写真/『風と共に去りぬ』のマミー役で助演女優賞を受賞し、黒人俳優として初めてオスカーを手にしたハティ・マクダニエル。
新基準はステレオタイプを否定したり、質の悪い物語について検討することは求めない
新基準導入後は、ハリウッドはこの種の物語から遠ざかるのだろうか? 残念ながら、新基準はステレオタイプを否定したり、質の悪い物語について検討することを求めていない。『ダラス・バイヤーズクラブ』のジャレッド・レトのように、トランスジェンダーの役にシスジェンダーの俳優をキャスティングすることや、『ビューティフル・マインド』のジェニファー・コネリーのように、有色人種を白人俳優が演じることをやめるように、とも要求していない。また、『フォレスト・ガンプ/一期一会』のゲイリー・シニーズのように、健全な肉体を持つ俳優が車椅子を使用する役を演じられなくなることも規定していない。また、特定のマイノリティグループが他のグループよりも多く取り上げられることを軽減するものでもない。それらは基準の中で一絡げにされている。実際、新基準は映画製作者にかなりの自由度を与えている。しかし、そうであっても、クリスティー・アリーの反応で見て取れるように、映画関係者をたじろがせるには十分なものになっている。
素晴らしい映画は包括的でありながら、同時に優れた作品になりうる
問題は、この新しいイニシアチブが、すでにいろいろなところで言われているように、質よりも優先されてしまう危険性があることだ。SNSを数分覗くだけで、多くの映画が多様性の条件は満たしていても、クオリティでは平均以下だった、という意見が散見される。2014年のオスカー作品賞にノミネートされた『グローリー/明日への行進』もそこに含まれる。同年、優れた作品だった『そして父になる』と『フルートベール駅で』は、どちらもアカデミーからは無視されている。
投票は常に政治的なものであり、明らかに主観的なものだが、物事に対する態度を前面に出し、より多様性を加える努力をしているからといって、評価する映画の欠点を無視することはできない。『パラサイト』、『ブラックパンサー』、『ROMA/ローマ』が我々に教えてくれるように、素晴らしい映画は包括的でありながら、同時に優れた作品になりうる。そして、そうあるべきだ。米アカデミーは、その結論において言えば、資格要件を変える必要はない。変える必要があるのは、質の高い映画製作に対する偏った理解の方である。
写真/第92回アカデミー賞作品賞発表で壇上に集まった『パラサイト』のキャスト&クルーたち
Translation & Text : Naoko Ogata
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