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二重にしたら幸せを掴めるのか?―作家・鈴木涼美と考える、10代女子の整形クロニクル
自分の顔のコンプレックスを手軽に修正できるアプリがたくさん登場し、「理想の自分」を作り上げることが簡単になってきている一方、写真にのなかの自分に近づくためにプチ整形する人も増加。先日、母親が10代の娘に「二重整形」を受けさせたというSNSの投稿が話題となり、「生きやすくなるのであればいいと思う」「整形させるには若すぎる」など、賛否を巻き起こしたけれど、若い頃に一重を二重にすることに関して作家・鈴木涼美さんはどう思う?
10代のプチ整形が珍しいものではなくなった
ワイドショーで10代のプチ整形が取り上げられるなど、安価でできる二重埋没手術がいよいよ一般に浸透してきた。かつて10代であれば瞼を糊付けして幅の広い二重を作るアイプチや、細いテープを貼る二重テープなどが流行したが、毎朝鏡の前で時間を取られる上に、瞼の形や厚みによっては高い技術が求められるので、1ヶ月のバイト代で気軽にできる手術での二重形成は、高校生や大学生の間でも流行しているようだ。
整形手術の歴史は長いが、ほんの20年前は整形というと、漫画「カンナさん大成功です!」や「ヘルタースケルター」など、何百万もかけて全身を包帯で包むほどの大手術のイメージが先行していた。ヒアルロン酸注入やボトックス注射などメスを使わないプチ整形や、眉毛やアイラインのアートメイク、埋没式二重形成など、リスクと費用が少なく、ダウンタイムを気にせず受けられる施術が広く知られるようになったことで、整形への偏見や恐怖は随分と後退した。ビューティー大国である韓国のアイドルなどの影響もあってか、新型コロナウィルス感染症の感染拡大以前は国内のみならず本場ソウルへ整形旅行を企てる若い女性も多かった。
特に二重に関しては、アイプチ・二重テープの頃から、日本の女の子にとって長年の鬼門で、施術方式によっては10万円以下、格安クリニックではなんと5万円以下でできるようになった形成術が流行するのは必然とも考えられる。細い糸で瞼の内側を数点縫いとめる埋没法は、費用が安いだけでなく、気に入らなければ戻すことができる、切開しないためにダウンタイムがほとんどない、など、これまで多くの人にとって整形を思いとどまるリスクやネックがほぼ払拭されたと言っていい。学生であっても連休などを使って気軽に受ける人が増加したことの理由は他にも、両親が整形に抵抗がない世代になりつつあることなどが考えられる。
私自身も、目は埋没式整形を何度かしているので、10代、20代、30代とそれぞれ二重の幅は違う。同年代の友人たちを見ても、ヒアルロン酸注入や埋没式の経験者は、鼻プロテーゼ挿入や輪郭形成など、ダウンタイムが長い大掛かりな手術に比べて非常に多く、毎日アイプチをしていた友人らに至っては、いつまでアイプチでいつ埋没式施術を受けたのかもほとんど把握できない。たった15分の施術で、化粧時間を大幅に減らせるのであれば、何ヶ月もかかる歯科矯正よりずっとカジュアルに予約を入れる人が多いのは何も不思議ではない。
二重に対して異常な執着心があるのはなぜ?
そもそも何故二重に対して異常な執着心があるのだろうか。欧米でもプラスティック・サージャリーやボトックス注射は人気だが、瞼の形成経験がある人に会うことはそう多くない。日本の二重整形経験者が多いインスタ女子や読者モデルなどと似たような属性・ファッションの米国人女性では、むしろ豊胸手術の経験者が多い。日本で豊胸手術が人気なのは、AV嬢やキャバクラ店など、性的魅力で男性からお金を引き出す業界などに限られる。対する二重整形は、直接的に異性の視線のみを意識しているとは言い難い。
二重願望を大きく膨らませたきっかけの一つは写真文化だろう。近年の自撮り文化や世界的なSNS全盛の前から、日本の若い女性たちはプリクラや使い捨てカメラで異常なほど自分らの顔を写し、それを手帳やアルバムで持ち歩く人が多かった。特にプリクラは多くは2人や3人で横並びになり、正面を向いたアップの顔を写すため、人と顔の比較をしやすいしされやすい。もともと瞼が厚く目の細い顔を典型とする日本の女性は、「目が大きい」を美人の第一条件と刷り込まれているため、自分の目が横に並ぶ友人より小さい・細いことが気になる。かつては西洋顔コンプレックスや少女漫画願望などと呼ばれたが、目の大きさにこだわる傾向は割とずっとある。韓国の美容外科などと比較すると、日本の症例写真の方が目がぱっちりと大きいものが好まれるようだ。
奥二重や一重の美しい人は山ほどいるが、写真に写した時に、アイシャドウなどの化粧が目立たないため、派手で華やかな印象に欠けるとよく言われる。何を持って美とするか、とは大変複雑な問題ではあるものの、現時点の一般的な意味で写真映えがするのは確かに圧倒的に幅の広い二重である。埋没式で二重幅を広げたところで、日常に何か変化があるとは思えないが、写真を褒められること自体は確かに増えたと思う。若い女性にとって、インスタグラムなどで自分の写真を世間に晒すのは、ごく日常的な習慣として定着しつつある。写真写りを優先した顔作りに精を出すのはうなずける。
実物よりも写真のなかで「盛れちゃう」問題
プリクラ全盛期には、プリクラで「盛れる」メイク技術というのが流行した。プリクラはそもそも小さいシールに写真が印刷されるため、通常の写真よりも極端に目鼻を強調した方が目立つ。普段過ごすには過剰なハイライトを入れ、アイプチで二重の幅を広げて付けマツゲを付けて、結局似たようになった女性たちの顔は、後に登場した補正機能でより均質的になり、目はチワワのように大きく、肌は雪のように白い、現在スマホアプリの機能で補正されてSNSに大量にアップされている顔の原型が出来上がった。補正された顔に、現実の顔を寄せているという印象が、近年の整形例には目立つ
写真の顔と現実の顔の関係、写真と自意識の関係はテクノロジーの進化によって様々な形に変化した。かつて、不鮮明なプリクラ写真では、現実と雰囲気の違う「盛った」姿が映ることがあるが、それがあまりに現実とかけ離れていると、プリクラ詐欺などと揶揄された。現在、ネットワーク上のみで人と繋がることが一般的になったことで、現実との乖離はあまり問題視されず、むしろ写真に映る姿を重要視する態度が優勢になったように思う。
メイクも補正もできるのだから、わざわざ自分の顔を変える必要がないと感じる人も一部にはいるはずだが、日々インスタにアップする写真と見比べて、鏡の自分が「追いついていない」と感じれば、今度は自分の顔の方を補正しようと考える人がいてもおかしくない。少なくとも、リアルな人間関係がなくなったわけではない昨今、現実もインスタに映っている自分でいたいと思うのはそう不自然ではない気がする。
ルッキズム偏重に否を唱えながら二重整形したっていいじゃない
整形の歴史も長いが整形批判の歴史も長く、進歩しつつある。20年以上前、他者の整形に批判的な人の代表的な意見は、親にもらった身体に傷がつく、失敗し後悔するリスクが高い、などであった。現在は日本でも、ルッキズム偏重やステレオタイプの女性像に否を唱える人が増えた。ルッキズムはバービー人形をめぐる米の論争や近年ではビューティーの本場韓国での脱コルセット運動など世界中で長く抗われている問題ではある。外見で判断されない、という世界が本当にいいのかどうか、は議論に答えが出るものではないし、むしろ取り繕える外見が判断の入り口にある事はある意味親切な気もするが、いずれにせよ、批判の動きがあっても、現状では人は外見が美しいと少なくとも人から褒められるという点で、内面などまだまだ発展途上の若い女性の承認欲求がそこに集まる事は御し難い。ただ、整形やメイクなど女性の「綺麗になる」ための努力や装いを、男性社会が押し付けた価値観だと断定するのは性急だ。掘り返せば男に選ばれる女になることは確かに女性たちにとっての重要な問題ではあったものの、その後、女性たちの中で豊かに発展し、今では男性にはなかなか味わえない人生の喜びやアイデンティティになっている場合もある。
個人的には、ルッキズムに批判的な世論をどう捉えるかは別として、現状を生き延びる手段としての整形技術を過度に問題視・自虐視する必要はないと考えている。一度やってしまったら次々手を加えたくなるような中毒性は確かに指摘されるとおりなくはないが、日々メイクをしてアイプチをしている手間を幾分省く意味でも、埋没式くらいやったらいい。人の処遇を外見で決めるルッキズム的な風潮に反対しながら二重整形はする、というやや矛盾した行動があったって別に構わないのだ。思想を持つことと現状を生き抜く事は、人生に必要な二大柱で、その柱に矛盾があるからって人に叩かれるいわれはない。
何を優先し、誰からの評価を欲して今を生きる?
経験者としていくつか具体的なティップスを出すとしたら、まず瞼の形状は、意外と歳とともに変わるので、少なくとも25歳くらいまで待つのは手ではある。特にアイプチをしていると、体質によってはいつの間にかアイプチなしでも形状が記憶されるようになる。あとは、瞼も肉体の一部なので、太ったり痩せたりで随分と厚みや印象が変わる。瞼が厚ぼったい悩みは意外と顔のむくみをとったり、身体を鍛えたりすると解消されることが多い。
それから何より、何を優先し、誰からの評価を欲して今を生きるかという問題は、顔作りの前に自分に問うべき欠かせない問題だ。例えば、幅広二重はインスタグラムや女子会では評判がいいが、欧米に行く予定があるなら、どちらかというと自然であまりぱっちりしていない東洋系の目の方が評判がいい。美の基準は自由であるが故に、所属する社会やその国の文化の歴史で大きく変わる。
そう考えれば、思い悩んでいた一重の細い目や褐色の肌などは、ごくごく限られたコミュニティの序列に照らし合わせた結果でしかないこともわかるので、整形以前に、悩みと呼ぶほどのことでもなくなっていたり、自分の持ち場を変える気になったりする。少なくとも、整形はメイク時間の短縮や日々目につく「自分の難点」をクリアすることがあっても、ものの考え方や幸福感に作用するものでない事は、当たり前のことすぎて忘れている人は多い。