ポップアートの創始者として今も人気を誇るアンディ・ウォーホル。でもあまりにも影響力が大きく、強烈な光を放っていたがゆえに周囲に落とす闇も深かった。ウォーホルとの出会いで人生が狂ってしまった5人のアーティストを振り返りたい。
最悪の形でプロデュースされたヴェルヴェット・アンダーグラウンド
1967年、ニューヨーク生まれのルー・リードが中心となって結成したヴェルヴェット・アンダーグラウンド。もともとルーは大学を卒業後、小さなレコード会社で仕事をしながらバンド活動を趣味として続けていた。でもある日、音楽を勉強するために留学してきたイギリス人のジョン・ケイルと出会って意気投合、アンガス・マクライズ、スターリング・モリソンという2人のメンバーを加え、4人で音楽活動をスタートさせた。最初は純粋に音楽性だけで結びついたバンドだったのである。
ライブ活動を始めた彼らに目をつけたのが、アンディ・ウォーホル。音楽の領域に活動を広げようとしていたウォーホルは彼らに「私がプロデュースする」とオファー。すでに売れっ子アーティストになっていた彼の申し出は魅力的だったけれど、1つ条件が。それはウォーホルの秘蔵っ子モデルのニコをメンバーに加えること。彼女の参加に反対したアンガスはバンドを脱退。代わりにモーリン・タッカーが入る。ここでヴェルヴェットがもともと持っていた音楽性が損なわれたことは否めない。
ウォーホルのプッシュ(というかゴリ押し)でニコが参加し1stアルバム『Velvet Underground And Nico』がリリース、一躍脚光を浴びる。ニコはシンガーとして才能を発揮するけれど、ルーとは明らかに音楽性が違った。またドラッグを乱用していたため、結局ヴェルヴェットの4人は彼女を追放。飽きっぽい性格だったウォーホルはすでにこの頃ヴェルヴェットとニコへの興味を失っていたからそれも許された。ヴェルヴェットはそのままバンド活動を続けたけれど、ニコが入ったことでルーとジョン・ケイルのケミストリーは完全に崩壊。ジョンがバンドを去って作品の質も低迷し、レーベルから見放されてしまう。最後にはルーもバンドを離れる。ニコだけが原因ではないけれど、彼女が入らなかったらバンドは別の運命を辿っていたかも。
搾取されて捨てられたミューズ、ニコ
そのヴェルヴェット・グラウンドにウォーホルの後押しで入り、メンバーたちから追い出されたニコも言ってみればウォーホルの犠牲者。もともとモデルだった彼女はフェデリコ・フェリーニの『甘い生活』などの映画に端役で出演、1963年には映画『STRIP-TEASE』で女優としてクレジットされるようになった。この作品ではセルジュ・ゲンズブールのプロデュースで、シンガーとしても活動をスタートした。まだブレイクはしなかったものの、順調にキャリアを築いていた。
ボブ・ディランの紹介でウォーホルに紹介されたニコは、ウォーホルの「ファクトリー」の常連になる。「ファクトリー」はウォーホルの制作場所であり、同時に彼が自分と取り巻きのために作ったパーティの場だった。ニコはこのスタジオの実験映画に出演、ヴェルヴェットの1stアルバムにもボーカルとして参加する。売れっ子アーティスト、ウォーホルのミューズとなった彼女は大ブレイク。一躍ニューヨークのアートシーンのクイーンになる。ちなみにヴェルヴェットのルー・リードはいい曲は全て彼女が歌ってしまうことから、ずっとウォーホルやニコに反発していたという。
ヴェルヴェットから追い出された後、ニコはソロシンガーとして活動を始める。ウォーホルの寵愛はすでに失っていたニコに残ったのは、彼のスタジオ「ファクトリー」で身につけたヘロイン依存症だけ。薬物のせいもあり、キャリアは低迷してしまう。80年代、10年ぶりに出したアルバムが評価されコンサート活動に復帰するがイビサ島の自宅近くで自転車で転倒、頭を強打したことが原因で逝去。死因はオーバードースではないけれど、事故の原因は薬物を倒れるギリギリの量まで摂取していたせいだと言われる。ちなみにアラン・ドロンとの間にもうけた男の子アリを連れて「ファクトリー」に出入りしていた彼女は、アリもヘロイン依存症にしてしまっていた。
金づるにされた社交界の華、イーディ・セジウィック
ニコにミューズの座を奪われたのがモデルのイーディ・セジウィック。カリフォルニアで大牧場を営む名門一家に生まれ、その後ボストンの社交界の華になったけれど、生い立ちは複雑だった。10代の頃は拒食症に苦しみ学校を中退。19歳の頃には父の浮気現場を目撃、口封じとばかりに父がイーディを精神病院に入院させている(もともと精神疾患が多い家系だったとも言われている)。その直後には仲の良かった兄が自殺するという事件も起きた。傷ついたイーディはその後、美術を学ぶために家を出てニューヨークへ。ニューヨークの文化系セレブたちのパーティに出入りするようになり、ウォーホルと出会う。
初代のミューズ、ベビー・ジェーン・ホルツァーに飽きていた頃のウォーホルに見初められたイーディは、彼のスタジオ「ファクトリー」の常連に。彼の映画『Poor Little Rich Girl』『チェルシー・ガールズ』などに出演、上流社会出身のアート好きなお嬢様が一躍ポップアイコンとなる。でもその頃、イーディはミュージシャンのボブ・ディランと恋に落ちる。ディランとウォーホルは犬猿の仲。ディランはウォーホルを「スープ缶のように中身が空っぽ」と罵り、ウォーホルは「イーディの美しさがロックスターのせいでだめになっていく」と言い放っていたという。ディランとの関係をきっかけにイーディとウォーホルの関係も悪化。ウォーホルの興味はニコへと移っていってしまう。
ミューズの座を失い、キャリアも低迷したイーディはその後ドラッグへと溺れていく。ボブ・ディランとも破局、もともと精神的に不安定だった彼女は大きな打撃を受ける。この頃、父から財政的な支援も打ち切られてしまう。精神的にも経済的にも苦境に陥った彼女は、ドラッグでハイになっているときにタバコの火を消し忘れ、自宅が火事になりやけどを負うという事件まで起こしてしまう。その後、精神病院への入退院を繰り返した彼女は家族の暮らす牧場へ。都会から離れればドラッグを断てると考えた上での決断だった。でも1971年、あるファッションショーを見に出かけパーティに参加したとき、再びドラッグに再び手を出してしまう。オーバードースで28歳という若さでこの世を去った。
孤立させられた人気物、ジャン=ミシェル・バスキア
1980年代のモダンアート界に燦然と輝くジャン=ミシェル・バスキア。高校時代からブルックリンを拠点にアーティスト「SAMO(セイモ)」と名乗り、グラフィティアートを描き始めた。その彼にとってアンディ・ウォーホルは憧れの存在。自主制作したTシャツやポストカードを売っていた10代の頃、あるレストランで食事中のウォーホルを見かけたバスキアはウォーホルにポストカードを売りつけにいく。でも同席していたギャラリストに追い払われ、その場では関係は発展しないまま終わってしまう。
その後、バスキアは美術評論家のルネ・リカードに見出される。彼の後押しで参加したグループ展で作品が売れたのをきっかけに個展を開催、一躍売れっ子アーティストに。ウォーホルはこの頃改めてバスキアの存在を知り、意気投合。親子ほど年齢が離れていたけれど作品を共作。合同展などを開き、深い友情を育んでいく。しかしウォーホルとの関係が深まるにつれ、バスキアは古くからの友人たちから離れていってしまう。恩人とも言えるルネに贈るはずだった作品を、売れてから知り合った画商ブルーノ・ビショップバーガーに売ってしまうという事件もあった。このような事件を重ね、バスキアの友人はウォーホルしかいなくなっていった。
1987年、ウォーホルは胆嚢手術を受けた。手術は成功したものの容態が急変し、心臓発作で逝去してしまう。彼の死で精神的な打撃を受けたバスキア。ウォーホルの生前から彼の影響でヘロインに依存していたバスキアは、彼を失った空虚感を埋めようとますます薬物に溺れていく。ウォーホル以外の人たちと疎遠になっていたバスキアに、友達は誰も残っていなかった。ウォーホルの死から1年半後、27歳という若さで亡くなってしまう。
社交界から“失楽園”したトルーマン・カポーティ
自分が見出したアーティストやミューズ、ミュージシャンの人生によくも悪くも影響を及ぼすのは当たり前。でもウォーホルのすごさは、彼のアイドルだった人物の人生をも狂わせたところ。そのアイドルとは作家のトルーマン・カポーティ。10代の頃から雑誌『ニューヨーカー』のスタッフとして活躍を始めた早熟な彼は、1948年に22歳のとき小説『遠い声、遠い部屋』を出版。早熟の天才作家として注目を集めた。ウォーホルは少し年上のアイドル、カポーティに強く惹かれ、ひたすらファンレターを書いていたという。当初無視していたカポーティだけれど、ウォーホルがアーティストとして知名度を獲得しクラブ「スタジオ54」などで顔を合わせるようになると友達に。カポーティもウォーホルのスタジオ「ファクトリー」の常連になる。
しかし、ニコやイーディの例からもわかるように、ウォーホルが有名人の“おともだち”を次々に引っ張り込んだ「ファクトリー」の常連はことごとく薬物に依存していく。もともと「ヤク中でアル中」を自称していたカポーティも例外ではなかった。アルコールと薬物中毒を悪化させ、1966年に発表したノンフィクションと小説を融合させた作品『冷血』を出版してからはスランプに陥ってしまう。最後の作品となった小説『叶えられた祈り』も未完に終わっている。この作品は彼が親しかった社交界のセレブリティたちの内情を暴露するものだった。友達たちから裏切り者と見做され、絶交されてしまうカポーティ。孤独の中、1作も作品を完成させられないまま、1984年に心臓発作でこの世を去る。ちなみに同じ年、ウォーホルのスタジオ「ファクトリー」も閉鎖された。