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モードの革命家、ピエール・カルダンがファッションを変えた決定的瞬間&名言集

ファッションの民主化を推し進め、ダイバーシティを掲げて多様な人種をモデルに起用し、世界で初めてメンズコレクションを開拓、ライセンス契約を初導入……モードの常識を次々と覆した天才デザイナーの軌跡をプレイバック。

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ピエール・カルダン

2020年12月29日、98歳でその人生に幕を閉じたピエール・カルダン氏。新陳代謝の激しいブランドを擁する巨大コングロマリットとは距離を置き、亡くなる間際まで采配を振るった伝説のデザイナーだ。彼の成し遂げた偉業、多くのデザイナーに影響を与えたクリエーション、 心に染みる名言集を振り返ってみよう。

参考文献:「Le temps et la mode 時代とモード」(ピエール・カルダン ジャパン社

© House of Cardin - The Ebersole Hughes Company

ピエール・カルダン

ピエール・カルダン

1922年7月2日イタリアのヴェニス近郊で生まれ、2歳の時にフランスへ一家で移住。

1945年、パリに移りマダム・パカンのアトリエでファッションを学び、その後コレクションデビュー時のクリスチャン・ディオールのもとで働いた後、1950年に独立。バレエ、演劇、映画のコスチュームなどを多く手がけ、1953年に初めてのオートクチュールコレクションを発表し一躍注目を浴びる。

「私の目標は一般の人の服を作ることだ」と宣言し、1959年ブルジョワだけを相手にしていたオートクチュールから脱却。デパートで気軽に買えるプレタポルテに業界で初本格参入し、斬新な素材選びと未来的なコスモコール・ルックで若者を熱狂させた。

ファッション後進国だった日本や、社会主義国の中国やソビエト連邦などに積極的に進出し活躍の場を広げる傍ら、ライセンス契約をファッション業界で初導入し、飛行機や自動車からタオルまであらゆるライフスタイルに関わる商品をデザイン。

布の魔術師、ファッションの革命児として評価される一方、先鋭的すぎてファッション業界から敬遠されるなど苦労やドラマもさまざま。女優のジャンヌ・モローとの運命的な恋、門前払いされた老舗レストラン「マキシム・ド・パリ」のリベンジ買収、演劇支援のために情熱を注いだ劇場「エスパス・ピエール・カルダン」……。波乱万丈な人生を送りながらも、常に“装う”ことの楽しさを伝え続けたファッションの伝道師こそ、ピエール・カルダンなのだ。

>次ページから、ピエール・カルダンが塗り替えたファッション偉業をご紹介。

「ファッションの民主化」大衆向けプレタポルテを発表

pierre cardin with models at airport
Bettmann//Getty Images

富裕層向けのオートクチュール全盛期だった1960年代前半、カルダンは「私の目標は一般の人の服を作ること」と宣言し、59年にフランス オートクチュール組合会員として初めて、プレタポルテ市場に参入した。百貨店プランタンで憧れの新作がリーズナブルな価格で手に入る“モードの民主化”を庶民は大歓迎した。

世界初! メンズコレクションをスタート

mode masculine pierre cardin en 1963
REPORTERS ASSOCIES//Getty Images

スーツ一辺倒だった紳士服に、モダンなプレタポルテ・コレクションを投入。1960年には250人ものモデルを起用したメンズのショーを初開催してカルダン旋風を起こした。

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Beatles
V&A Images//Getty Images

ビートルズもカルダンの襟なしジャケットを着るなど、アーティストも注目するブランドとして人気を不動のものとした。

国籍も肌の色も関係なし! 日本人や黒人をモデルに起用

ピエール・カルダン

白人女性が主流だったファッションモデルにアジアン・ビューティの松本弘子や黒人モデルを起用。特に松本弘子への思い入れは強く、2年越しの説得の末、1960年にパリに召喚。黒いショートボブとキリッとした顔立ちは“東洋のヒロコ”、“陶器のようなマヌカン”としてパリのモード界で新鮮に受け止められた。

カルダンは弘子をこう評している。「ヒロコは信じられないくらい慎み深く控えめだった。それに、ほかのどのマヌカンとも違う歩き方をした。歩いているとは思えなかった。飛んでいるかのようだった。小さな足、長い首、とてもやせていて華奢な体、色白の肌。日本的でありながら日本的なものを超えていた」

カルダンの弘子に対する信頼は絶大で、1967年、出産を機に引退した弘子に対して、 「これまでの私の成功を50%ずつ分け合おう」と提案したほど。

モードの民主化は年齢を超えて。子供服にも参入

designer pierre cardin
Keystone-France//Getty Images

1966年に子供服を発表し、「双子はたくさんいるが、三つ子は珍しくて話題になるだろう」と、200人もの三つ子を起用したショーを開催。 さらに、1968年には、パリに子供服のブティックをオープン。

「私は、その人の人生全部に私が作った洋服を着せたかった。私が子供服を作り始めたのは、そういう単純な理由だった」とカルダン。
その後、食器のライセンス契約を結び、ライフスタイル全体のデザインを始める。大衆のためのオートクチュールをモットーに、そのクリエーションは庶民の生活に深く入り込んでいった。

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社会主義国の中国やソ連で、初のファッションショーを敢行

pierre cardin presents his fashion creation in moscow
Daniel SIMON//Getty Images

「月にも私のブティックを作りたい」と語っていたカルダンは、ファッションが民主化されていなかったロシアや中国にも積極的に進出。

1970年には中国で初のファッションショーを開催し、1991年には冷戦下のロシア、モスクワ「赤の広場」にて史上初のファッションショーを開催。ユネスコの名誉大使に選出され、チェルノブイリ救済プログラムにも関わった。

ジャンヌ・モローとの運命的な恋

jeanne moreau
ullstein bild Dtl.//Getty Images

ジャンヌ・モローとピエール・カルダンとの愛のストーリーは有名な話。主演映画の衣装を担当したカルダンとモローは一瞬にして恋に落ち、その後4年もの間一緒に暮らし、公私に渡るパートナーとして交際した。

演技力は素晴らしいがおしゃれとは縁遠かったジャンヌは、カルダンの手にかかって見違えるほどシックになり、ファッションアイコンとして君臨するようになった。

2人がタッグを組んだ作品は『エヴァの匂い』(1962年)、『天使の入江』(1963年)、『バナナの皮』(1963)、『マタ・ハリ』(1964)、『愛すべき女・女たち』(1967)など。

jeanne moreau et pierre cardin
REPORTERS ASSOCIES//Getty Images

破局後も、長年にわたって友情をはぐくみ続けた二人。

「ほかの女優を思い浮かべても、彼女に匹敵する人はいない。マスコミはずいぶん我々を追いかけ回したが、結局は結婚しなかった。私はプライベートな生活を語るのは好きではない。しかし、私はずっと独身であり、家庭生活ではなく仕事に生きることを選んだということは言っておかねばならない」と後に語っている。


>次ページから、ピエール・カルダンの歴史に残るクリエーションを名言とともにご紹介。

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「贅沢を大衆の手の届くものにしなければならない」

ピエール・カルダン

プリーツコート(1952年)

クリスチャン・ディオールから独立後の初のオートクチュール作品。まだディオールの“ニュールック”の影響が色濃いシルエットだが、プリーツを施したこの赤いコートは、アメリカで20万着も売れるほど大ヒット。このコートがカルダンの名を馳せるきっかけとなった。

「墓に入ってからいちばんの金持ちであっても何の役にも立ちません」

ピエール・カルダン

この成功により「ハーパース・バザー」のカメル・スノーや、「エル」のエレーヌ・ラザレフらが、エレベーターもない屋根裏部屋にある当時20代のカルダンのアトリエに足繁く訪れるようになった。

「私は、他人の失敗を引き受けるよりも、自分自身のリスクを負う方を選びます」

ピエール・カルダン

バブルライン(1954年)

カルダンの名を一躍有名にしたバブルライン。バイヤスを利用して泡状の凸凹を積み重ねたドレス、“ローブ・ビュル”はカルダンの地位と名声を盤石なものとした。

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「服は、常にその時代を表しているので、時代ごとに人々が何に興味をもったかがわかる」

ピエール・カルダン

顔を覆う大きな襟もカルダンの代名詞。

「大衆化と低俗の間には、共通性はまったくありません」

ピエール・カルダン

バイヤスライン(1957年)

アシメトリックの効果を狙た、バイヤスカットを生かしたライン

「モードは今や世界を動かすまでになった」

ピエール・カルダン

ラソーライン&セルプライン(1958年)

テクニシャンとしてのカルダンの名声を決定的にしたのが、背中にたっぷりとした分量をもたせたシルエット。

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「みんな女性の体に布を着せながら裁っていきますが、私はまず服を作り、そこに女性をはめ込むのです」

ピエール・カルダン

「ファッションには国境はありません。世界中の才能あるデザイナーがパリに集まってくればいい」

ピエール・カルダン

幾何学的カッティング(1965年)

幾何学をテーマにしたカッティングが特長の作品。このころから、フューチャリスティックな作風に転向していく。

「不況はモードが進展することに、移り変わっていくことに、ブレーキをかけるものではありません」

ピエール・カルダン

コスモコール(1966年)

宇宙服のようなヘッドウェア、ビニール素材使い、ジッパーなど、新しい宇宙時代を予感させたコレクション。

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「人は裸では、その人がどんな人か、国籍さえわからない」

ピエール・カルダン

「服によって、その人の社会的な部分、個人的な好みがわかる。そういう意味でも、産業としてモードは大変有益な仕事であると言えるだろう」

「モードは生活を取り巻く環境すべてをデザインする」

ピエール・カルダン

ローブ・ムレ(1968年)

特殊な化学背にの布地に、レリーフ状の型押しでドレスに凹凸を出した独創的なアイディアの作品。

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