歴代夏季オリンピックで起きたスキャンダル35の事件簿
男性が女性として出場していたり、双子のきょうだいを身代わりにしようとしたり……思わず驚きの声を上げてしまいそうな事案もたくさん!
コロナ禍の下、いよいよ開催が近づいている東京五輪。永きに渡ってアスリートたちにとって栄光と勝利と名誉のイベントとして燦然と輝いてきたオリンピックでは、同時にスキャンダルや不可解な出来事、疑惑などが繰り返し起きてきた。ここでは歴代夏季オリンピックで人びとが経験した35の事件を振り返ってみよう。US版『ELLE』より。
1896 アテネ オリンピック
マラソンコースの途中を馬車で移動
初開催のオリンピックのマラソンで、ギリシャのスピリドン・ベロカス選手はレースの途中、馬車に乗るという不正を行った。それでも彼が残した成績は第3位というのはなんとも微妙……
1900 パリ オリンピック
女性が出場?それだけでスキャンダルに
アメリカで選挙権を獲得するより20年前、女性のオリンピックの出場が認められ、大きな反響を呼んだ。初年度は、テニス、馬術、ヨット、クロッケー、ゴルフの5種目にしか出場できなかったが、それでもそれは大きな前進だった。
1904 セントルイス オリンピック
またもやマラソンで不正行為発覚
1896年のベロカス選手の不正に学んだ……?と思いきやそうではない。1904年、9マイル(約14.5キロメートル)走ったところでへたりこんだアメリカ代表のマラソン選手フレッド・ローツはマネージャーの車に飛び乗り、残りの11マイル(約17キロメートル)を運転してもらって移動。しかし、ゴールまであと数マイルのところで車が故障したため、競技場には歩いて入場。ローツの姿を見た人々ははじめ、彼を勝者として歓迎。すぐに本当の優勝者ではないことを認めたが、それは彼が一時の称賛を浴びた後だった。
1908 ロンドン オリンピック
各国の競技ルールの違いが争点に
ある競技のルールについて、2つの国の間で合意が得られない場合、どうすれば良いだろうか? 1908年、男子400メートル競走の決勝戦でアメリカ代表のジョン・カーペンターはイギリス代表のウィンダム・ハルスウェルの走路を妨害。これはアメリカの陸上競技規則では正当だがイギリスでは禁止だった。このときの開催地はイギリス・ロンドンだったため、カーペンター選手は失格。ハルスウェルと一緒に予選を通過した残りの2人のアメリカ人選手がカーペンターへの裁定に怒って、決勝戦をボイコット。ハルスウェルは不戦勝で金メダルとなった。
1936 ベルリン オリンピック
性別確認検査の顛末
1936年、前回優勝者だった100メートル走の金メダリストであるポーランド代表のステラ・ウォルシュは、アメリカのヘレン・スティーブンスに敗れた。ウォルシュ選手のサポーターたちは「スティーブンス選手のタイムは女性にしては速すぎる」と性別検査を要求。スティーブンス選手は屈辱的な検査に応じ、オリンピック委員会の施した身体検査によって彼女が女性であることが確認された。
だが、この話はここで終わらない。数十年後の1980年、クリーブランドにあるショッピングモールの外でステラ・ウォルシュが射殺された。そして、検死の結果、実際に男性器を備えていたのはヘレン・スティーブンスではなく、ステラ・ウォルシュだったことが判明したのだ。何とも不思議な事件だ。
1936 ベルリン オリンピック
女性としての生きることを強いられた1人の男性
1936年、ドイツ代表としてドーラ・ラチエンがオリンピックに出場するのを、ヒトラーはじっと見ていた。ラチエンは4位に終わったが、その2年後には女子走高跳の新記録を樹立した。しかし、それから数十年後、ラチェットは実際には男性であり、ナチス政府によって女性として生きることを強制され、競技に参加させられていたことが判明したのだ。
1952 ヘルシンキ オリンピック
オリンピックの贖罪
パーヴォ・ヌルミ選手は、6つの世界記録を樹立し、9つの金メダルを母国にもたらした1920年代、’30年代を代表する中・長距離ランナーだ。1932年のオリンピックでの彼の活躍は、母国フィンランドはもちろん世界中から期待されていた。しかし、スウェーデンが彼はアマチュア選手であるという主張に異議を唱えたため、ヌルミは出場することができなかった。
1952年にフィンランドで開催されたオリンピックでは、フィンランド陸上界のレジェンドとして、ヌルミは聖火を灯す最終聖火ランナーに任命されている。
1956 メルボルン オリンピック
水面下の戦い
ハンガリーとソ連の緊張が高まっていた1956年、オリンピックの水球の試合でも、2国間の争いが影響を及ぼしていた。2国の試合中、水中で選手同士がパンチを繰り出し、出血をした選手もいたため、審判は無理やり試合終了を告げている。
1960 ローマ オリンピック
靴がなくても大丈夫
1960年当時、“裸足”のランニングがトレンドだったわけではない。しかし、エチオピアのアベベ・ビキラは、靴を履かずにマラソンを走破し優勝。世界中で話題になった。
1960 ローマ オリンピック
同じ剣士が繰り返し出場
5種競技のフェンシングで、チュニジアの選手たちは皆を欺こうと試み、そして失敗した。彼らは、フェンシングではマスクを被ることを良いことに、誰にも気付かれないように注意しながら試合ごとに同じ剣士を送り込んでいたのだ。3回目に同じ剣士が出てきたとき、その悪事がバレてしまい、全ては水泡に帰すことに。
1960 ローマ オリンピック
どちらが先着?
アメリカ代表ランス・ラーソンとオーストラリア代表ジョン・デビットは、100メートル自由形をコンマ数秒の差でほぼ同着。当時はハイテク機器もなく、審判の目以外に勝敗を決めるものはなかった。最終的には、先にサイドに触れたのはラーソン選手だったにも関わらず、審判らはデビット選手に勝利を与えている。
1964 東京 オリンピック
性別確認検査は頼りにならない
ポーランドのスプリンター、エワ・クロブコフスカは、400メートルリレー走と100メートル走に出場し、それぞれ金メダルと銅メダルを獲得した(写真で表彰台の3位に上っているのがクロブコフスカ選手)。1967年に彼女は性別検査で不合格となり、1964年のメダルを剥奪された。しかし、話はそれだけでは終わらなかった。数年後にクロブコフスカ選手が息子を出産したことで、人々は彼女が染色体を1本多く持つ遺伝子異常であることを知ったのだ。性別確認検査というのは酷く、非人道的で、欠陥があるものだ、と言える。
1968 メキシコシティ オリンピック
ボディランゲージで政治的態度を表明
体操選手のベラ・チャスラフスカは、ソ連主導によるプラハ侵攻に抗議して、平均台とゆか競技のメダル授与式の最中に、ソ連の国旗から顔をそむけていたとしてチェコ国民のヒロインになった。
1968 メキシコシティ オリンピック
ドーピング違反の初の事例
1968年は、オリンピック選手の能力強化薬物の使用、いわゆるドーピングの事実が初めて認められた年だ。スウェーデンの5種競技選手であるハンス・グンナー・リルジェンウォールは、(多くの人にとっては身体強化薬ではないものの)アルコールの使用により銅メダルを失った。
1968 メキシコシティ オリンピック
ブラックパワーと差別からの解放を訴えた黒手袋
陸上男子200メートル走のメダル授与式で、アメリカのジョン・カーロスとトミー・スミスは黒い手袋をはめたこぶしを突き上げて、ブラックパワーの敬礼を模したジェスチャーを行った(靴を履かないパフォーマンスは黒人の貧困を表していた)。銀メダルを獲得したオーストラリアのピーター・ノーマンは、このパフォーマンスに不参加のように見えるかもしれないが、実はユニフォームに人権バッジをつけて、主張に参加している。38年後ノーマンが亡くなったとき、カーロスとスミスの2人は彼の葬儀の棺を担ぐ役を務めている。
1972 ミュンヘン オリンピック
コルブト・フリップのお披露目
1972年、ソ連の体操選手オルガ・コルブトが "コルブト・フリップ "と呼ばれる体操の技を披露した。これは段違い平行棒で高い方の平行棒に立ち、バックフリップで同じ棒を掴むというものだが、現在は危険なため禁止されている。
1972 ミュンヘン オリンピック
残り3秒のドラマ
1972年、アメリカのバスケットボールチームは、1936年にオリンピックが始まって以来、初めての敗北を経験した。しかし、この敗北が大きな問題だったのは、「負け方」によるものが大きい。残り3秒のところで、ロシアが1点負けていたが、誤審によってロシア側にもう一度チャンスが与えられ、これをモノにしたのだ。「40年経った今でも、この試合はリプレイされている」とニューヨーク・タイムズ紙はこの転機となった試合について書いている。未だに、そのインバウンズは許されるものだったのかどうか、また、51ー50で金メダルをロシアに与えた人物は論争の的になっている。
1976 モントリオール オリンピック
前代未聞の10点満点
1976年、ルーマニアのナディア・コマネチ選手が、オリンピックの体操競技で初めて10点満点を獲得した。これは、あまりにも前代未聞の偉業であり、電子スコアボードの表示限界は9.99だったため「1.00」と表示された。