世界でもっとも有名な毒家族:ブリトニー・スピアーズが闘う毒親の血脈【毒家族に生まれて:番外編】
#Freebritney ! 2000年代世界のゴシップ欄は彼女の奇行で埋め尽くされた。その陰にある父親の毒家族
とんでもない親だと誰もが彼女を批判した。90年代アイドルが男に依存して産んだ結果ろくな子育てもできていないと。しかし、「とんでもない親」が実は彼女ではなく、彼女の両親であったことが2010年代に入ってから明らかになってきた。ブリトニーが立ち向かってきた毒を#FreeBritneyが叫ばれる今、あまりにも知られ過ぎている、父ジェイミーとその親、そして彼と妻リンとの毒に満ちた関係を、今改めて振り返る。
#FreeBritney(ブリトニーを解放せよ)。ディズニー・アイドルからアーティストとして脱皮し、数々のレコード記録を持つブリトニーが、ある時からその行動は明らかに奇異なものに変わっていったことは記憶に新しい。ジャスティン・ティンバーレークとの別れ、浮気疑惑、突然の結婚とキャンセル、格下ダンサーとの結婚と離婚、薬物依存、度重なるリハブ入り、そして世界的に報道された“丸刈り事件”。
(写真)1999年撮影。デビューシングル“…Baby One More Time.” はロリータを意識したセクシュアルなイメージが議論を呼んだ
父ジェイミーの後見人就任は、この多すぎる奇行を前にすれば当然のように思える。父を後見から外してほしいと訴えることこそ、まだ後見人が必要である証拠だと主張する人がいてもおかしくない。
(写真)2007年、坊主にした直後パパラッチに腹を立て車を傘で殴打するシーンは全世界のゴシップの的に
父の幼少期のトラウマ
ジェームズ・パーネル・スピアーズ。「ブリトニー・スピアーズのマネージャー」として世界的に有名になった彼が、それ以前に何を生業にしてきたのかはっきりしない。1952年にルイジアナのケントウッドで、労働者階級の家庭に生まれ育つ。10代が終わるか終わらないかの時期に最初の結婚。22歳で薬物で逮捕。2年後に離婚するとすぐに21歳のリン・ブリッジスと出会い、しばらくして二回目の結婚。ブライアンとブリトニーを授かる。その後は妻が教師や託児施設運営などで生計を立て、娘ブリトニーには8歳から仕事をさせているため、自分の職業を見つける時間も必要もなかったのかもしれない。
しかし、彼の“自由業”の実態を探るより、彼が妻にした暴力を明らかにしたほうが彼の実態がはるかによく理解できる。
(写真)ブリトニーの母リンと父ジェイミー。2004年
結婚以前から薬物とアルコールの依存症を患っていたジェイミーは、妻に肉体的暴力をふるうだけでなく、精神的に支配した。たまらずリンは離婚するため1980年に準備を始めたが、離婚調停を始めた際の彼のハラスメントや攻撃を恐れ、結局諦めてしまった。その直後にブリトニーは生まれたのだが、ジェイミーの基本的な執着と所有意識は変わることなく続いた。女性へのこの執拗な支配欲は、母親との悲劇的な別れがあると見る人もいる。
(写真)2008年NYにて。父ジェイミー
ジェイミーは13歳のとき、母を失くしている。幼い弟の死を嘆いてその墓前で自殺したのだ。母の突然の死。しかも生きている自分より後に生まれた弟の死のため命を絶った。自分を選んでくれなかったことは相当のショックだったと想像できる。しかも17の時には自動車事故に遭い、自分以外同乗していた同級生すべてが亡くなる悲劇も経験する。目の前で近しい人間の命が失われていく経験を経て、結婚相手にすべての救いを託していたかもしれないし、ただ単に南部のマチズモの結果なのかはわからないが、彼の女性への執着は激しかった。
しかしその執着は女性その人ではなかった。ジェイミーが執着していたのは女性が携えてくる“メリット”に他ならない。幼くして働き始めたブリトニーの事務所ジャイブのキム・ケイマンは当時を振り返ってこう証言している。
「母のリンは個人的にも家族のためにもブリトニーがスターになるために必要なことは何でもする! といった感じだった。しかしジェイミーには滅多に会うことはなく、彼が私にかけた言葉といえば『娘が金を稼いだら、ボートを買ってもらおう』。これだけでした」
(写真)2003年、10歳下の妹ジェイミー・リンと。親が売り出そうと目論んだ妹のデビューにもブリトニーは相当な時間を費やした
父と母の共依存
母親のリンはといえば、良く言えば前向きだが、目の前にある問題点をしっかりと見つめることのないタイプの人間だった。ジェイミーの過去を知るリンは、どんなに精神的にも肉体的にも暴力を振るわれても、同情からなのか、支配されるに任せてしまった。別れては戻りを繰り返し、長年酒乱を放置し、夫をリハビリ施設に入れたのはようやく2004年、ブリトニーが手配してからのこと。
リンは典型的な夫婦間DVの犠牲者だが、彼女の選択はつまり夫が子供たちに対してまき散らす悪い影響を放置する行為でもあった。
(写真)1999年コンサートにて。アルバム『…Baby One More Time.』は全米で1000万枚の売り上げを記録
娘に才能を見出した時も同じだった。歌とダンスの吸収力が人一倍早かったブリトニーを、極幼いときから舞台に立たせた。8歳になるかならないかの時点で最初に「ミッキー・マウス・クラブ」のオーディションに連れて行った際には、さすがのディズニーも「幼すぎる」と断ったほど。後に再び受験し、見事ディズニー・アイドルになるのだが、そのくらいリンはモラルに鈍感で疎かった。
これがジェイミーのハラスメントや暴力を軽視したひとつの要因であったことは間違いない。
(写真)1993年から2年間、「ミッキー・マウス・クラブ」で一緒だったクリスティーナ・アギレラと2000年のMTV・ビデオ・ミュージック・アワードにて
末娘のジェイミー・リンが16歳で妊娠した時もそう。性交同意年齢が16歳に引き上げられ用としていた時代に、かなり問題視され主演作もキャンセル。世間から猛バッシングに遭ったが、懸念点とは明らかにズレたコメントを繰り返したのはこの“疎さ”のためだ。おかげで世間にはジェイミー・リン本人が矢面に立たざるを得なかった。
リンはブリトニーの私生活を書いた著書を3回も出版している。いくら本人との共著とはいえかなりリスキーだとためらいそうなものだが、おそらく善意だったのだろう。テレビで娘の本当の姿を知ってほしかったからだと動機を語っている。
(写真)左から妹ジェイミー・リン・スピアーズ、姪マディ・ブライアン・オルドリッジ、母リン・スピアーズ。2016年ビルボード・ミュージック・アワードにて
ケアラーとして生きる母リン
リンの才能は何よりも、他人をケアすることにあった。軍人の父に厳しく育てられた末っ子の彼女にとって、自分より弱く、可哀そうな人の世話をすることは生きがい。その中で最たる「可哀そうな人」が夫ジェイミーだった。
後見人には母を望んだブリトニーだったが、それを断った理由を後にこう語っている。
「彼女には父親を嫌いになってほしくなかったの」
後見人をジェイミーにやらせれば、そもそも崩れている父娘の愛情がまともなものに戻るとでも思ったのだろうか……。
(写真)2008年娘の騒動についてニュース番組「トゥデイ」で語る母リン
もちろんリンは夫のハラスメントに耐えられず、離婚した。耐えられないのは当然だ。ところが、なぜかすぐよりを戻してしまう。これを3度(うち1回は事実婚)繰り返した。彼女にとって本当に保護するべき相手はもちろん娘たちだったのだろうが、そうはいかなかった。自分が守ってやらなければとこの人はダメになる……。そう信じたのかもしれない。
こうして本来保護されるべき子どもたちは、自分ではなく自分たちの幸せな生活を侵略する暴君に愛情の多くが奪われる瞬間をどんな思いで繰り返し見つめていたのか。
(写真)母リンと父ジェイミー。2011年撮影
一家の大黒柱として自分の稼ぎを食いつぶし、その上働かずに一家を支配し続ける父。幼い頃から築き上げたこの名声も財産も、母親の愛情もすべてこの男のために費やされている……。その絶望は計り知れない。両親の2度目の離婚の際にブリトニーはこんな言葉を残している。
「両親がついに離婚できたことは、私の人生に起きた最良の出来事だった」
(写真)2000年MTVビデオ・ミュージック・アワードにて。理想のカップルと呼ばれたジャスティンと
健全なパートナーシップを知らずに育って
最低の男性像と、最悪の男女関係を目の前に育ったブリトニーにとって、殴りさえしなければ男性はみんな「いい人」だった。トップスターで4000万ドルとも5000万ドル(約55億円)とも言われる資産をもつ彼女にとって相手の稼ぎはどうでもいいこと。すぐに相手に依存する分、相手への執着はすさまじかった。まるで父親が女性にしてきたように。
(写真)2001年子どものためのチャリティイベントでジャスティンと。2002年3月に破局する
世間にとって健全なパートナーシップを求めてもがき苦しむ過程は、滑稽にも恐ろしくも見えた。薬物に依存し、髪を突然自分で丸刈りに。それは一見、父という敵に塩を送るようなものだった。しかし彼女が「ブリトニー・スピアーズ」というブランドに傷をつければ、収入は断たれ、ひいては父親に復讐ができると考えたのだとしたらすべてに納得がいく。
(写真)2002年主演映画『ノット・ア・ガール』プロモーションのため来日
支配する父
ところが父ジェイミーのほうが一枚上手だった。保護者としてマネージャーとして契約書を利用し、働かなければ罰金を科す、つまり娘が働かないこともまた自分の儲けになるように仕組んだのだ。ボイコットすらも「反抗を禁止する」ルールを作ることで封じ込め、給料を下げる言い訳にするような、まるでブラック企業の手口。
(写真)2004年に結婚後、婚姻無効を申し立てた。相手の幼馴染ジェイソン・アレン・アレクサンダーにはその前の年、逮捕歴があった。
この手口を知れば、後見人裁判でブリトニーが「IUD(子宮内避妊用具)を外させてもらえず、妊娠もできない」と訴えた話も俄然信ぴょう性が高くなるし、はちゃめちゃに見えた結婚も、父親から逃れるための必死の逃避先だったのだと考えれば納得できる。
(写真)2004年ジェイソンとの結婚を取り消した直後、ほぼ無名のラッパー、ケヴィン・フェダーラインと結婚。交際3か月のスピード婚だった。
だがしかし、不安定なブリトニーに近寄る男性たちは、ジェイミーと同じく守銭奴で、如何に彼女が生み出す莫大な財産を自分のものにするかに必死だった。もちろん夫となったケヴィンも例外ではなく、夜な夜なブリトニーを置いて遊び歩いては豪遊を繰り返し、喧嘩が絶えなかった。
もちろん離婚も容易ではなく、養育費を狙いケヴィンは息子たちの親権を奪うべく争った。裁判では彼女が如何に母親として不適格か、その証明の場となり、結局父ジェイミーがブリトニーの財産を支配するのに有利に働いてしまった。
(写真)坊主にした際の髪はe-bayで売りに出されてしまった
彼女はますます追い詰められ、働かないことも許されず、浮気を繰り返した元夫には養育費という名の手当てを払わねばならず、無理やりさせられた仕事でヒットを飛ばせば、太っただの劣化しただのと嘲笑された。
当時セレブ界で「叩いてもいい認定」をされたに等しい彼女に向けたパパラッチの下劣な態度は、いじめっこのそれに近く、平気で彼女の胸や股の間を狙うなど、もはやピーピングに近いショットを堂々と狙う輩もいた。
(写真)2007年10月、ケヴィン・フェダーラインとの親権争いの際、裁判所に群がるパパラッチたち
父に追い込まれた“ガス燈効果”
依存症のリハビリ施設から戻っても、ブリトニーはもはや「弄り」の対象だった。ジョーン・リバースなどコメディアンにはバリカンで髪を剃ったあの辛い時期を何度もパロディにされたし、ラスベガスでの復活公演でフリを間違えれば、それ見たことかと一斉にネットのゴシップが騒ぎ立てた。
こうして四面楚歌になったブリトニーは世間から「おかしい人」扱いされ、世間の延長線上にある裁判所からも後見人を外してもらえない。「おかしい人」に囲まれているため、「これはおかしい」と訴える本当は一番まともな人間が第三者からは「おかしい人」に見えてしまう。親によるそんなブリトニーの“被害”を端的に表すエピソードがある。2019年に元夫ケヴィン・フェダーラインが申請したブリトニーの親権時間の変更要求だ。
(写真)2008年、マドンナとのコラボレーションも話題に
当時、母親が息子に会える時間をより制限されることになったのはブリトニーの落ち度だとの批判が多数SNS上で沸いたのだが、実はここには父親が関わっていると複数の証言が出ている。
ある日、13歳の息子ショーン・プレストンとジェイミーが口論になった。そのときジェイミーが孫であるジョーンを「激しく揺さぶった」ことで目撃者が警察に通報。最終的に検察は起訴を断念したが、ジェイミーには孫との接近禁止命令が出てしまった。後見人が接近禁止措置を取られたため、ブリトニーの会う時間は削るべしと判断。結局元夫の意見が通ってしまった。
(写真)2008 MTVビデオ・ミュージック・アワードでテイラー・スウィフトと
こんなに問題が巻き起こるのは自分の落ち度……。そんなガスライティングの罠に嵌っていたブリトニーはついに目覚めた。本当におかしいのは自分じゃない。その訴えに、世間は耳を傾けられるのか。裁判官は彼女を信用できるのか。
2020年になってようやく事の重大さに気付いた、母リンは「後見人としてのジェイミーとブリトニーとの関係性には不透明な部分が多く心配している」と発言したという。どんな形にせよ、彼女が親のもつ毒から解放される未来を祈るのみだ。
(写真)2007年のアルバム『Balckout』が300万枚のヒットを記録し復活。が翌年ブリトニーは裁判所命令で完全なる父ジェイミーの保護下に保護下に置かれてしまう。2008年に記録を打ち立てた『Circus』の収入も父の管理下となった。