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ヴィヴィアン・リー “肌の色”を隠すため祖母に引き裂かれた世紀のオスカー女優親子【毒家族に生まれて】

“100年に一度の女優”は人種差別に翻弄され、自分を否定しながら2つのアカデミー賞と悲劇的最後を手にした。

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ヴィヴィアン・リー
Getty Images

ハリウッド不朽の名作とされる『風と共に去りぬ』で世界的スターとなった英国女優ヴィヴィアン・リーは、心のバランスを崩し「色情狂」とまで書き立てられた。激しく、苦しみに満ち、最後は喀血して亡くなった波乱万丈の人生で、2度アカデミー賞を手にした世紀の女優の陰に潜む、イギリスの人種差別を改めて見つめ直す。

>>毒家族に生まれて バックナンバー

炎に照らされた運命の女優

風と共に去りぬ
Aflo

1938年12月、『スタア誕生』などで知られるハリウッドの名プロデューサー、デイヴィッド・セルズニックはセットが業火に包まれるのを見つめていた。映画史にその名を刻む『風と共に去りぬ』の撮影はセットを燃やして始まった。5万2千ドル(現在の価値で約1.1億円)をかけ映画化権を獲得するも、主演女優がまったく決まらないうちに資金が底をつき、出資者を募るため仕方なくハイライトの大炎上シーンから撮影したのだ。
 
ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘップバーン、ジョーン・クロフォード……。完璧主義者のセルズニックは名だたるハリウッド女優を次から次へと候補から落としていた。どうするべきか……。そこに兄マイロンが連れてきたのが英国からはるばるやってきた新人女優だった。

「よお、天才。おまえのスカーレットに会わせてやるぜ」。

(画像)『風と共に去りぬ』アトランタ炎上シーン。主演女優はまだいなかったため、映っているのは代役の女優。

風と共に去りぬ
MGM/Photofest//Aflo

炎に照らされたのは紛れもない美貌。なのにこれまで見たことないような独特の顔。暗闇にしたたかに煌めく猫のような緑色の目。無垢なようにも、計算高くも見える不思議な表情。彼女をスカーレット役に決めたことをセルズニックは、のちにこの映画における自分の最大の功績だと語っている。それほどまでに、ヴィヴィアンはスカーレットそのものだった。

(画像)『風と共に去りぬ』より。実はよく語られるこのエピソードは脚色されていて、ヴィヴィアンが現れたときには炎は消えていたとも伝えられる。

vivien leigh
Sasha//Getty Images

ところがアメリカで空前絶後のブームを巻き起こした小説の映画化で、イギリス人女優が主演すると知るや、自称愛国者たちが猛批判を繰り広げた。ヴィヴィアン・リーの華々しい映画スターの旅路は外国人として嫌われることから始まったのだ。しかし、ヴィヴィアンは母国イギリスでも“異邦人”だった……。

(画像)1935年 デビュー間もない頃

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インドのお嬢様

vivien leigh, 1978  vivien leigh aged 6 various photo by rex features  aflo 2337
Rex Features//Aflo

1913年11月5日、世界が大戦に突入するのを目前にインドのダージリン地方で、豊かな家庭に生まれた。

父アーネスト・ハートレーは野心家の新興成金。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込むと、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した。美貌の青年として植民地の英国人コミュニティでは有名なプレイボーイでもあったという。そんな彼が母の代からインドに住まう英国人一家の娘で、母国ロンドンのカトリック女子校で花嫁教育を終えたガートルード・ヤクジーと結婚したのだった。
 
(画像)ヴィヴィアン、6歳の頃

vivien leigh
Bettmann//Getty Images

母ガートルードと父アーネストの間にできた初めての(そして唯一の)子どもとして、インド人の使用人たちにも囲まれ皆の視線を浴び、愛されて育った極幼少期。そのかわいらしさは誰の目から見ても魅力的だった。

(画像)『風と共に去りぬ』の宣伝写真

父に褒められたお芝居

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1917年、父アーネストは無類の馬好きが高じ、イギリス領インド陸軍の騎馬隊将校として妻と幼い娘を残してベンガル―ルに赴任する。その頃、たまに顔を合わせる父にとって楽しみとなったのが、ヴィヴィアンのお遊戯。子どもらしからぬ習得の速さに、アマチュアで役者をやっていた父も、素人劇団に参加していた母ガートルードも子役として手ほどきした。最初はもちろんお遊び程度のものだったが、彼女はフィクションの世界を通じ、あらゆる文化や言語に触れていく。その中には絵本のような子どもらしい戯曲から、聖書物語やギリシャ悲劇までが含まれていた。彼女は言語能力と読解力に長けており、のちに『風と共に去りぬ』の米国南部アクセントすら事も無げに自分のものにしたが、それは幼少期の両親による優れた教育のお陰だと推測される。

(画像)『風と共に去りぬ』の宣伝写真

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on the set of 'gone with the wind'
Sunset Boulevard//Getty Images

この頃、ヴィヴィアンは両親の愛を十分に受け、自分が愛されることに疑いをもつことなく、人生の中で最も幸福な時間を過ごした。

ところが、子どもにとって最大であり、必要不可欠な親との絆は6歳にして突如断たれる。ロンドン郊外の寄宿舎にたったひとりで放り込まれたのだ。母方の祖母メアリーの差し金だった。なぜ? 
 
その理由はヴィヴィアンの中に流れる“異人の血”。
 
(画像)『風と共に去りぬ』撮影時のオフショット。『欲望という名の電車』で再び米南部の女性を演じることについて「私の発音がよかったからでしょうね」と答えている。

有色人種を祖先にもった英国人

ヴィヴィアン・リー
Aflo

話は3代前まで遡る。祖母メアリー・ヤクジーはインドに生まれた英国人孤児。1857年のインド反乱でインド兵に入植者である両親を殺されたため、一時浮浪児となり、その後孤児院に引き取られたとされている。そこにいたのが、英国人とインド人の間に生まれた“混血児”マイケル・ジョージ・ヤクジー。後のヴィヴィアンの祖父だ。運命に引き込まれるように出会いを果たした幼馴染の2人は、成長するとやがて結婚。5人の子どもをもうけた。
   
(画像)ポートレート写真

vivien leigh
circa 1940
 iv
Aflo

しかし、メアリーは夫の中に流れる憎きインド人の“血”を疎まずにはいられなかった。夫の家系図を焼き、夫の先祖を辿れないようにし、マイケルはアルメニア系だということにした。娘のガートルードも、当時良家の子女が箔を付けるために入学していたカトリックの女子寄宿舎に入れ、出自を可能な限りロンダリング。というのも、英国白人上流社会は“肌の色”に代表される“有色人種の血”に目ざとく、例外を除き社会的に致命的な“傷”だったからだ。

おかげでヤクジーの家系ははっきりと辿ることができない。実際のところ祖父マイケルの父がアルメニア人だったことは確からしいが、母親がインド系だったかははっきりせず、マイケル自身はペルシャ(現在のイラン)生まれ。そのため実は、インド人の“混血”だったのは、マイケルではなくメアリー自身だったのではないかと推測する人物もいる。そのひとりがヴィヴィアンのいとこで旅行作家のアレクサンダー・フィールディング。彼は、「僕たちの叔父伯母(ガートルードのきょうだい)の仲には、肌の色の濃い人がいました」とも証言している。
 
(画像)1940年ごろの宣伝写真。ウエストの細さが有名で身長160㎝mで17インチ(約43cm)と書かれたこともあるが、実際の衣装サイズは23~25インチ(約58~64cm)ほど

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that hamilton woman, vivien leigh, 1941
Aflo

いずれにせよメアリーの経歴ロンダリングの甲斐あって、ガートルードは“紛うこと無き”イングランド出身の白人男性アーネストと結婚する。出会ったのはインドだったが、イギリスの社交場ということにした。もちろん結婚式はインドではなく海を渡ったロンドンのケンジントンで行われた。
 
しかしその隠蔽工作は完全には成功しなかった。ヴィヴィアンが生まれた後、インドの英国人社交界でガートルードがどうやらインド人との“混血”であるらしいという噂が流れたのだ。
 
白人以外の異人種の遺伝子は、イギリスの上流社会において致命傷。“純粋は白人”以外は二流以下と見なされた(もちろん人間扱いされないことも)。 “非白人”を妻にもったためか、父アーネストは英国人の紳士クラブから入会を拒否されてもいる。
 
(画像)1941年『美女ありき』より

出自を隠すためひとり取り残されたイギリス

vivien leigh as cleopatra
Bettmann//Getty Images

このままでは孫娘のヴィヴィアンも“混血児”としての烙印を押されてしまう。焦ったメアリーは、“純粋な白人”である夫を前にコンプレックスを抱えるガートルードをけしかけ、5歳半でロンドンの寄宿舎に入れようと画策。通常入学するのは7~8歳。「早すぎる」と最初は拒否されてしまうが、それでもあきらめず、ついには6歳で受け入れることを認めさせてしまう。
 
祖母メアリーは、白人社会から蔑まれたインド人の“血”を、“肌の色”を、人々の記憶から消し去るべく、必死だったのだ。
 
(画像)舞台「アントニーとクレオパトラ」より。1951年

diane fisher and vivien leigh on the set of "gone with the wind"1939 mgm bdm
Aflo

「私は、いちばん親を必要する時に親を喪ったの」

これほどまでにひどい仕打ちを、誰からも愛される幼いヴィヴィアンにしたのは、女性関係にだらしないアーネストへの、ガートルードの見せしめだったと疑う向きもある。アーネストが誰よりも夢中だったのが、多才でかわいらしいヴィヴィアンだったため、娘を引き離したのでは……と。しかし、大きな原因は、"純白人"の夫を目の前にして娘の、そして自分の中に流れる“インドの血”を毎日のように思い知らされた恐怖であったとする説の方がよっぽど合点がいく。

(画像)『風と共に去りぬ』の撮影現場にて子役と

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ヴィヴィアン・リー
Aflo

家族にとっては、ヴィヴィアンが英国で白人として認められるため生まれを隠しただけ。むしろ思いやりだったに違いない。だが訳もわからず、親から引き離された幼いヴィヴィアンは寄宿舎に入ると混乱する。
 
突然目の前に溢れる自分以外の子どもたち。白亜の豪邸と緑に囲まれた何不自由ない生活から、規則正しく自分の身の回りは自分でやる毎日に様変わり。途方もない寂しさ。激しいホームシック。もしかするとヴィヴィアンは、長きに渡る学校との入学交渉の過程で、自分が「どうやら他の英国人とは違う」と感じるきっかけもあったかもしれない。旧友たちはこう語っている。

「私たちは異国の話に興味津々だったけれど、ヴィヴィアンはインドの話をしたがらなかった」

(画像)愛猫と。寄宿舎時代に心の救いになった猫、とくにシャム猫を生涯愛した。

「私じゃない誰か」を演じた少女時代

chat between scenes
John Kobal Foundation//Getty Images

ある日、彼女は寄宿学校で芝居に参加する。最初は気が進まなかったが、舞台上の彼女の一挙手一投足に教師たちも含め全員が注目した。他の生徒にとって2歳ほど若い「みんなの末っ子」。インドからやってきたどこか異国の香りのするかわいらしい小公女。しかもお芝居は抜群。女子生徒たちは歓喜し、拍手と羨望の眼差しを注いだ。彼女は失われた自分への関心をようやく見出したのか、そこで決心する。

「私は女優になるの。世界中の誰からも愛される女優に」

後に同じくハリウッドスターとなる、寄宿舎の先輩モーリン・オサリバンに宣言した。
 
(画像)1937年『A Yank At Oxford』の撮影現場にてモーリン・オサリヴァン(右)と

vivien leigh
Sasha//Getty Images

しかし、親から見捨てられたと考えていた彼女は哀しみを忘れることはなかった。自分以外の誰かになり切れば、学校のみんなに愛されるが、所詮それは自分ではない。人前では誰からみても社交的で魅力的で快活な彼女は、そのために精神力を使う分、独りきりになると電池が切れたように寂しげな表情で一点を見つめることが増えていった。
 
この頃、規則正しすぎる生活もあってか、もしくは両親それぞれの不倫(父は外に女性を作り、母は父の友人と関係)に気付いたからか、ヴィヴィアンは潔癖になっていく。モノは整えられ、必要以上に手を洗い、汚れを嫌ったが、汚れを落とす姿は人に見せないようにした。これはやがて、口臭を異様に気にしたり、一回着けた手袋を二度と使わないといった行動に発展することになる。
 
(画像)1938年

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女優の道の入り口で結婚・出産

風と共に去りぬ
Aflo

そうして14歳になるとようやく親が迎えにきた。4年間父の仕事でヨーロッパ中を点在。フランス語、イタリア語含め語学を、同時にどんな場所でも人々の注目を得る社交力を身に付けていく。

1931年、ようやく母国イギリスに戻ると、18歳で名門RADA(王立演劇学校)への進学を希望。その手続きをしたのは娘の才能を誰よりも信じていた父アーネスト。無事入学を果たす。

(画像)『風と共に去りぬ』より

ヴィヴィアン・リー
Aflo

ところがそもそも皆の愛情を受けることが目的だった芝居。入学してすぐ出会ったケンブリッジ卒の弁護士ハーバート・リー・ホフマンから愛されると、あっさりと結婚してしまう。当然、“まごうこと無き”白人エリートから見初められたことは母ガートルードにとっても誇りとなった。
 
(画像)宣伝写真。ヴィヴィアン自身は「フランス人とアイルランド人とヨークシャー人」が祖先であると発言している

vivien leigh
Silver Screen Collection//Getty Images

ハーバートは13歳も年上で、役者をバカにし、嫌ってさえいた。そのためヴィヴィアンのRADA入学も、所詮少女の趣味の延長か花嫁修業の一貫くらいにしかとらえていなかった。子どもが生まれればいずれ辞めるだろうと。つまりヴィヴィアンは本来敵と言っていい男性を選んだのだ。祖母メアリーのように……。
 
そうしてすぐに身ごもり、RADAを中退、娘スザンヌが生まれる。しかし可愛がれなかった。友人たちは「ヴィヴィアンは母性を持たないまま母親になった」と語っているが、「母性」も「父性」も神話だ。幼い頃から他人の愛情を受けるために必死だった彼女にとって、与える側に回る方法は誰からも教わっていなかったし、むしろ人々の関心を奪っていく愛情の簒奪者たる娘をどう愛していいのか戸惑ってもおかしくない。時を同じくして、エリート夫は、妻への愛情はあれど情熱を失っていく。
 
(画像)1940年代

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芝居への情熱が復活

vivien leigh
American Stock Archive//Getty Images

やはり、自分以外の誰かにならなければ愛されない。ヴィヴィアンは再び、演劇への欲望を高めていく。

そんな時、若手俳優期待の星、ローレンス・オリヴィエの天才的演技を目にする。

この人のようになりたい!
 
雷に打たれたような衝撃を受け、ありとあらゆる手段を講じてローレンスに近づき、突然楽屋に押しかけることすらした。

(画像)1940年代

laurence olivier with wife jill esmond
Bettmann//Getty Images

この行動を略奪愛が動機だと断じるのは簡単だが、俳優として大舞台に立つことを望んでいた彼女は、むしろローレンスを足掛かりに俳優業界に深く入り込み、チャンスを手にしたかったと見ることもできる。その証拠に、ヴィヴィアンは当初、ローレンスの妻で女優のジル・エズモンドとも仲良くなり、教えを乞うている。2人で会って舞台女優の先輩として長時間話を聞くこともあったし、そのまっすぐな姿勢に夫との仲を疑いつつもジルが彼女を旅行に誘うこともあった。3人で旅行すらしている。
 
(画像)1930年ころ、当時の妻ジル・エズモンドとローレンス

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