断罪、それとも同情? 不倫騒動への反応が示すその人たちのコンプレックス4
毎日のように不倫騒動がニュースとして流されるなか、当事者ではない私たちがとるリアクションは千種万様。PODCASTも好評配信中の作家・鈴木涼美さんが「許される不倫」と「許されない不倫」の違いや反応のタイプを分析。
人の不倫が許せない? 反応が示すその人の価値
数年前から断続的に騒がれる有名人の不倫問題について、世間やマスコミの反応は実はかなり多岐に渡ります。大声の批判が目立つ不倫もあれば、同情の余地があると何故か判断される不倫もある。笑い飛ばしてもらえる人もいれば、それを取り上げるマスコミ批判が目立つような事例もありました。
だから、最近誰々の不倫が騒がれている、と言っても、男性や相手の女性を責め立てる声が大きい場合もあれば、妻への共感や同情ばかり目につく時もあるし、むしろ「くだらない」「人の不倫に興味がない」という声を多く誘うこともあるわけで、それを決めるのはもちろん、不倫それ自体の性質ではなく、不倫ニュースを見ている側です。大衆の一角となって反応を示している人たちが、その不倫を「笑っていいもの」「許されざるもの」「騒ぐ世間こそを批判すべきもの」と勝手に決めているわけです。
ただ、「不倫」が惨劇となるか喜劇となるかを決めるのが、不倫当事者や浮気相手だけではなく、時に被害者とも言える当事者のパートナーであるように、「不倫報道」の性格を決めているのは、当事者夫婦や不倫相手だけでなくマスコミや大衆であることを考えれば、上記の説明はやや不十分な気もします。つまり、妻なくして夫の不倫を語れないように、受け手や報じ手の評価分析なくしては不倫報道は語れない。不倫をしている当事者たちが不完全な人間である程度には、受けてリアクションをとっている大衆も不完全なわけで、彼らの反応を手放しで信じ、善悪判断の拠り所にするのは、到底妥当だとはいえないからです。
タイプ① 被害者代弁型
必ずしも不倫報道に限った話ではなく、時にはセクハラ被害などあらゆる分野で近年猛威を奮っているのが、「被害者の気持ち」を代弁して怒ったり悲しんだりする声のように思います。「彼女の気持ちになって考えてもらえればわかるだろうけど」「あなたは被害者の気持ちになっていない」などの言葉の裏には、私は被害者の気分を正確に言い当てられる、という根拠なき自負があります。元来人の気持ちを想像する、という行為はそう単純ではないはずですが、どうしてそれほど自信が持てるのでしょうか。
話が脇道に逸れますが、文筆業をしていると、文章がセンター試験に使われるような作家の方と席を共にすることがあり、よく聞く笑い話に「試験に作者の気持ちはどれでしょうっていう問題があって、俺、作者なのに間違っちゃったよ」「この時の作者の気持ちは?っていう質問があってさ、それ書いた時は締め切りのことしか考えてなかったんだけど」とその設問のナンセンスを笑う、といったものがあります。試験の設問も退屈ですが、その手垢にまみれたエピソードも退屈で、若い書き手は大抵苦笑いしています。
とはいえ、こういった設問は、物語の暗喩や効果を知り、批評について学ぶということなので、退屈とはいえ別にそれほどナンセンスではありません。学生向けに「気持ち」などと言っているだけで、要は、この名詞は何の比喩か、ここに一文があることでどんな効果があるか、を問うており、気持ちという情感のあるものよりは、意図や作戦という言葉を使った方がいいとは思いますが、いずれにせよこの問題であれば、容量の良い受験生は堂々と答えることができます。
反面、不倫報道の反応に見られる「被害者の気持ち」は、意図や作戦を指しているのではなく、情感に関することを言っているようで、「知らずに過ごしていた夫の気持ちをなぜ考えないのか」「苦しさと闘って許した彼女の気持ちを裏切った」など、どこかで借りてきたような表現を使っては、被害者の痛みを共に感じ、被害者の痛みが分からない加害者糾弾の道具とするわけです。これは、ちいちゃんの影送りのラストはどんな意図が感じられるかといった問題とは全く別の、人の気分を独断的に規定する罪がある。
何を喜び、何に興味がなく、何を軽蔑し、何を誇るか、といった問題はそのままその人の宗教観や哲学に直結し、正しさの基準や人間をどう捉えるかに関わる大きな問題です。不倫という問題に直面した時に、どう感じ、どう感じないか。これも不倫や結婚、ひいては性や人間や現代について何を信じているかに関係するので、本来は宗教や文化の数だけ広がり、人の性格の数だけ表出の仕方も変わるはずです。それを「被害者の気持ち」と括ってしまう乱暴さは、自分の信じるものを他者も信じて当然、だという欺瞞と共にあります。
タイプ② メタ系ニュートラル装い型
学生の皆様などはよくみる光景のひとつだと思いますが、議論が白熱しかけたところで「これは当事者にしかわからないよね」「双方が個人の価値観だよね」と水を刺し、盛り上がっていた話し手たちが不完全燃焼のまま議論をやめてしまうことはしばしばあります。不倫報道に関する反応の場も例外ではなく、テレビ番組でも平場のSNS空間でも、「男女のことは男女同士にしかわからない」「人が首を突っ込む問題でもない」と正論で議論を終わらせる、一見ニュートラルな人というのは結構見かけます。
そういった態度はもちろん、その場をなんとなく納めたり、赤く燃えすぎた双方にちょっと風を通すという意味では効果的な場面もないとは言えません。ただ多くのまともな議論というのは、個人の価値観の問題で当事者にしか究極わからない側面も多く、首を突っ込むことで世界が救われる保証などない、その程よいくだらなさの中で、自分の思想を試し、鍛え、修正し、磨き、また戦わせて成立しているわけです。つまり、ニュートラルのように思える中立的な態度というのは、全員が前提として持っているべき事実を最後に持ってきただけで、なぜか鶴の一声を自分が発したかのような高揚感が生まれるものでもあるのです。
議論や試合の場において、それを終わらせる瞬間には終わらせた者の権力が生じます。勝者が勝ちを宣言したり、敗者が負けを宣言したりする格闘技もあれば、双方怒りまくったまま決壊する議論もありますが、いずれにせよ終わらせるには権力が求められるわけで、ニュートラル風の正論をかざして議論を終わらせる態度は、議論を終わらせられない民に対して、もっともありふれたつまらないことを言いながら、一段高いところにいたいという願望に塗れて見えるのです。腕相撲や球技の試合の途中で、両チームが白熱するなか、「こんなことやっても意味ないよね」と言い出すのは大抵最も競技が下手な、凡庸な人間であることは言うまでもありません。
ニュートラルである、ということは、ニュートラルな自分をアピールすることとはある意味対極にあるわけで、正論を装って人の議論を相対化してしまうような人は、自分の凡庸さを受け入れ兼ねているようにも見えるのです。
タイプ③ 悪いのはマスコミ、本人は許せる型
報じたメディアや報じる姿勢などを批判するのは、ネット世論の影響力が定着して10年余、この時代に特徴的な現象とも言えます。権力を監視すべきマスコミが権力を持ちすぎることへの危機感は常に持っておくべきですが、マスコミが何によって作られるかという意識や自分が嫌悪しているのは何であるのか、を意識せずに批判を続けると、単に他者を黙らせる行為に繋がりかねません。
不倫報道においても、「こんな風に謝罪を流して誰が喜ぶ?」「もっと取り上げるべきニュースがあるだろう」といった言説は毎回必ず登場しますし、「これは別に許してもいいでしょう」「他人を傷つけたように見えないから笑える」といったあえて笑って見せる態度も横行します。確かに「くだらないことで騒ぎすぎ」という気分は視聴者の多くが共有している感覚なので、それを言葉にすることが無意味とは思いません。しかし、文脈や雰囲気によって、単に「もうその報道のしつこさには嫌気がさしています」「人笑して終わるのでいいのでは?」という以上の意味を載せていることもあって、その多くは「不倫報道によって自分が被る不快を排除したい」という主張か、「自分とバカな大衆を隔てたい」のどちらかだ。
前者は今現在もっとも権力を持ちがちな危うさがあります。近年の性的表現やジェンダー表現などでよく見られる、表現の不適切と表現により被った自身の不快をごっちゃにする態度は、表現規制の議論をゆがませたり、不用意にあらゆる作品にR指定や対象年齢を加えたりして、人の聞きたくないものでも時には報道しなくてはならない、というマスコミの性格を著しく変形する。自身が不倫をしている、不倫で嫌な思い出がある、不倫をしている人を見ると虫唾が走る、など背景は様々でも、不倫報道において臭いものに蓋をしたくてたまらないような人種が一程度いるのは事実でしょう。
後者は選民意識を持つことが許されない、高度に細分化・均質化した社会で、それでも自分が「その辺の一般大衆」ではないと信じたいという思いが透けるように思います。そういった思い込みの魔力は、若い女性が人気、という日本の一般論に対して「僕は尊敬できないと嫌だから30代以上じゃないと興味がもてない」と言って口説いてくるおじさんや、最近の女性は権利主張が激しいという反感に対して「私はフェミじゃないけど」と前置きしている女性にも通じる。凡庸な人間の中に埋れたくないという思想こそ凡庸なのは言うまでもないが、特に匿名に近いネット空間などで自分自身の不備を指摘されることもなく発せられる、一見達観したような物言いは、自分が大衆の中にいることを忘却し、他者に向ける言葉や俯瞰の刃を自分に向けることがなくなりがち、という問題があるわけです。
タイプ④ 嫌悪感爆発型と前近代的雄叫び型
不倫報道の中で、街の声と称して紹介されるものの多くが、不倫をした夫婦のかたわれに対して、個人的と思えるような嫌悪感、憎悪、不快感を叫ぶ声です。もちろんネット空間にも匿名・記銘でそういった声はあるし、「気持ち悪い」と罵ったり、「幻滅した」と嘆いたり、そういったことも含めてとにかく赤の他人である人のパートナーの仕打ちに、まるで自分ごとのように怒り、人物への嫌悪を露わにする。対象が男性であればミサンドリーの傾向を感じることもあれば、逆でミソジニーらしき背景が透けて見えることもあります。過度な共感により妄想上に大きな敵を作ってしまうこともあるでしょう。
それだけでなく、多くの人が感情を表現する手段を得たことへの高揚に、いまだに縛られている、ハイになっていると感じることも少なくありません。悪態を他人同士で共有したり、ひょんなことから自分の表現が多くの共感を呼んだりする高揚感を知ってしまうと、極端な表現こそ人の目に留まり、お互い相乗効果でどんどん過激になるというドラッグのような加速を見ることがあり、不倫報道においてもそういった極端化する表現は散見されるのです。
また、感情が爆発しているな、と思うもう一つの事例は、あえて古臭いことを言ってみる、ポリコレを無視して本音ぶちまけを試してみる、という主に男性に見られる傾向です。「男はバカなんだから許してよ」「おっぱいみたら手が動くのは当然」といったような、時代にやや嫌われがちな表現をしてみると、当然抑圧もしくは去勢されたかつての同士、かつての権力者たちに、よく言ったというような共感を寄せてもらうことがあるわけです。これもまた、表現のもたらすある種の昂りに酔っているようにも見えます。
自身のどういうコンプレックスを刺激した?
ここまでいくつかの反応を事例として挙げながら、どうしてそんな風に叫びがちなのかを考えていますが、留意すべきは、例えば「笑ってもらえた」不倫は、多種多様な人を笑わせた、というよりも、不倫を笑う人の声が大きかった、ととるべきことです。不倫それ自体への各々の思想がころころ変わることはあまり考えにくく、どの層の人を多く呼び集めたか、がその不倫報道の性格を決定づけると見た方が納得できます。許される不倫なんてない!という人はどんな不倫報道にもそう主張する。
あらゆる不倫報道に擁護から批判まで多種多様な声が存在する中で、より大きい声の層によってそのニュースは印象づけられます。不倫報道なんてくだらないニュースだとは私も思うけれど、どんな人の癇に障ったか、どういうコンプレックスを刺激したか、という観点で話すと、大衆の不満や不安を見つめるきっかけにはなるような気もするのです。