いよいよ東京オリンピックが開催されてしまいますね。

こちらイギリスではやはりまだまだコロナウイルスの話題で持ち切りで、オリンピックの話題はあまり見かけません。見かけたとしても「本当に開催しても安全なのか?」みたいなトーンばかり。「わーー!オリンピックだ!スポーツの祭典だー!」みたいな楽しいテンションはあまり感じられません。

思い返せば今から8年前の2013年、東京での開催が決まった時には私も「わーー! 楽しみ!」と胸が踊ったりしました。でも、ここ最近はその気持ちが一切消え去り、オリンピックという催しのコンセプト自体に疑問を持つようになってきてしまったのです。

一番大きな理由としては、「ええ! 緊急事態宣言中にやるの?!!」という呆れ&怒りからくるものですが、もう1つの理由として、オリンピックの成り立ちがめちゃくちゃに女性蔑視的だったことを知ったというのもあります。

近代オリンピックの創設者で、今でもオリンピックの父として崇拝されているフランスの教育者ピエール・ド・クーベルタンは、「(女性のオリンピック参加は)非現実的で、面白くなく、美しくなく、間違っている」とか、「女性の価値は子どもを産む数とそのクオリティーで表される」などの数々の女性蔑視的な発言を繰り返し、女性はオリンピックに参加すべきではないと断言しているような人物でした。

clark shiori
Clark Shiori

そのような人物が企画した催しだったから、1880年の第一回近代オリンピックでは女性選手の参加は禁じられ、第二回オリンピックでも男性95種目の競技に対して女性の競技は「女性らしい」と言われていたテニスとゴルフ2種目だけでした。

女性排除の現状に抗議の意を示した当時の女性たちは、1921年にモナコで「女性オリンピアー」、1922年にパリで「女性オリンピック」という女性だけのオリンピックを企画。こういった動きに対し、本家オリンピックも徐々に女性が参加できる種目を増やしていったそうです。

IOC会長の衝撃発言「いつか女性がオリンピックから完全に排除されることを願っている」

それでも、1931年時点でのIOC会長のバイエ=ラトゥール氏は「いつか女性がオリンピックから完全に排除されることを願っている」と言ったりしていたそうです、、、。ひええ、なんだか心が狭すぎてドン引きしちゃうぞ。

しかし、長い長い道のりを経て、今回の東京オリンピックでは史上初女性の参加率が48.8%となり、ジェンダーバランスのとれたオリンピックとなるとそうです。

わーい! めでたしめでたし!、、、とは今回のコラムは残念ながら終われないのです。

今年出版されたヘレン・ジェファーソン・レンスキー氏の『オリンピックという名の虚構―政治・教育・ジェンダーの視点から 』という書籍の中で、そもそもオリンピックの掲げている「より速く、より高く、より強く」というモットーが男性の肉体にとってより有利なものであるため、”女性アスリートの大半を不利な立場に立たせ、繰り返しそのパフォーマンスが男性と比較され、不十分だとみなされることになった”ということが述べられています。

『オリンピックという名の虚構―政治・教育・ジェンダーの視点から』

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たしかに、「より速く、より高く、より強く」って、筋力のある男性の肉体にこそ得意な分野だな。スポーツが身体を動かすことだとしたら、その3点以外にも注目すべきポイントってあるよね?

けれど、筋力のたくましさを評価基準とした種目の多いオリンピックでは、女性の身体的特徴は不利な条件として捉えられてしまうのです。

「男性並み」の女性の身体は“ルール違反”

なので、参加できるアスリートの男女比率に差はなくなってきたけれど、未だにメディア上では女性アスリートは「男性よりも格下」「二流」のように扱われる傾向にあります。

例えば2016年アメリカの金メダリストの水泳選手ケイティ・レデッキーはイギリスの新聞で「女性のマイケル・フェルプス(男子の競泳選手)」と称賛されたり。ハンガリーの世界記録金メダリストの水泳選手カティンカ・ホスツも、「トレーナーでもある夫の手柄だ」と言われたり。トラップ射撃で銅メダルを獲得したコリー・コグデル=アンレイン選手も「ラインマン(←夫の名前)の妻」のような呼び方をされたり。BBCのコメンテーターに女子柔道の決勝戦の様子を「キャットファイト」と呼ばれたり。

また、2015年に行われた調査によると、ニュースの見出しの中で、女性アスリートによく使われる言葉は「年齢」「高齢」「妊娠」「既婚・未婚」に対し、男性アスリートによく使われる言葉は「最速」「強い」「大きい」「素晴らしい」だったそうです。

また、女子競技への参加資格に、一定のホルモン数値などを規定していることが、その枠の外にいる人々を「異常」と見なし排除することに繋がっているのでは? との批判もあります。例えば、南アフリカのアスリート、キャスター・セメンヤ選手のケースはその1つだと思います。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
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生まれつき男性ホルモンのテストステロンが過剰に分泌される体質のセメンヤ選手は、女子800mでオリンピック2連覇を達成するなどの活躍をしていました。けれど彼女の肉体があまりにも「一般的な女性」の身体のイメージからかけ離れていたため、本当は男性なのではないか? と疑いをかけられ性別確認検査を余儀なくされました。この検査は女性器のサイズを図られたりと、非常に屈辱的で精神的ダメージを受けるものであったと言いいます。

そして国際陸上競技連盟は2018年から「テストステロン値が高い女性の出場資格を制限する」という新規定を導入。彼女が数値を規定の値に下げるためのホルモン治療を拒んだので、東京オリンピックの出場は叶わなくなりました。

現在セメンヤ選手はスイスの欧州人権裁判所に提訴しています。

例えば男性選手が人並み外れた長い足のような、競技に有利な肉体をもっている場合は、「素晴らしいDNA!」などと褒め称えられるのに、女性選手の肉体が「標準」から外れた途端「異常」とみなされ治療を強制されるのは、なんだか変だなと思います。

先程も登場した書籍『オリンピックという名の虚構―政治・教育・ジェンダーの視点から 』の中でも、国際陸上競技連盟の研究者が2012年の国際会議で例として持ち出してきた「正常な女性の身体」のイメージが、ふんわりと丸みを帯びた体の白人女性を描いたゴヤの絵画の「裸体のマハ」だったことが(後に極端な例であったと認めたそうですが)、批判されています。

そんな彼らの思い描く基準から離れる有色人種の女性たちは異常だと言われやすく、不当な「治療」を要求されてしまうのです。セメンヤ選手のように生まれつきテストステロン値が高い女性がいるならば、それも女性の身体のあり方の1つなのではないでしょうか?

デュティ・チャンド
Lintao Zhang//Getty Images

他にもインドのデュティ・チャンド選手(写真上)などもセメンヤ選手と同様の疑惑をかけられていいます。

これは女性への差別的な視点と、レイシズム的な視点が混ざっている問題だと思います。

“これが女性の身体です”と誰が決めているのか?

そして、2015年からオリンピックの規定が変わり、テストステロン値を最低でも12ヶ月間大会が定めた値以下に抑えれば、トランスジェンダー女性も女子種目に出場できることになりました。ニュージランドのローレル・ハバード選手はその条件をクリアし、2020年東京大会の女子重量挙げへの出場資格を得ました。しかし彼女の出場を巡って、「いくらテストステロン値を下げても、そもそもの筋肉の付き方などが違うのだから不平等だ」などといった声が他の選手の間から上がっているそうです。

私はスポーツ選手でもないし、トランスジェンダー当事者でもないので、これについて何かジャッジメンタルな意見を言う資格は持ってないと思います。でも、「トランスジェンダー女性は女性なんだし、当然女子競技に出場してもいいよね?」とやっぱり思うのです。

クラーク志織
Clark Shiori

彼女たちが出場することで他の選手は不利になる、と訴える人々の気持ちもわからないでもないですが、けれど実際にトランスジェンダー女性が競技で勝ちまくっているという事実はないし、もしそんな事があっても、それはルールがおかしいのであって、トランスジェンダー女性のせいでは決してないです。だって、「正常な女性の身体」の基準は誰かが一方的に決めていいものではないし、性別二元論で種目を強引に分けることも現実に即していない。

でも同時に「不平等だ」と訴える女性選手の心が狭いわけでもないと思うのです。

なぜなら、そもそも筋力重視の「より速く、より高く、より強く」という評価基準があるからこそ、女性たちは「男性には勝てない」「二流」といったレッテルを貼られ、「スポーツには女性枠というものがないと女性は活躍できない」ということになってしまっている。その狭い枠の線引を守ることに必死だから、自分の居場所を脅かすように見える相手に対して排除の心が出てきてしまうのではないでしょうか? 本当だったら手を取り合える者同士のはずなのに、、。

そんな女子アスリートたちの葛藤を尻目に、男子アスリートたちは誰からもジャッジされず、ただ「人間の限界を更新すること」を目指し、絶えずその肉体の素晴らしさを讃えられています。

「白人男性中心」のスポーツの宴

オリンピックを誘致することは多くの政治家の選挙時のアピールポイントであり、大会を開催させることは政治家たちの功績でもあります。

オリンピックはとても政治的な催しです。そして政治は未だにほとんどが男性によって執り行われていますし、IOCの歴代会長の12は全員が白人男性です。

オリンピックの開催都市が決まると、そこにもともと住んでいた低所得者などが追い出されたり、ホームレスの人々が排除されたりします。弱者がいつもしわ寄せをくらうのです

今回の東京のオリンピックを見ていても同じだなと思います。

クラーク志織
Clark Shiori

オリンピックを開催させたいIOCや政治家は国民の生活なんて気にしていないのです。

彼らの「夢」「感動」「あるべき模範的人間像」を押し付けているだけにしか見えません。

そして彼らを支配している価値観は、男性中心的だったり白人中心的だったりするのです。

これは強者のための宴で、弱い者を救おうとなんてしていません。今回のパンデミック禍におけるIOCと政府の無慈悲な対応がそれを物語っていると思います。

一体、スポーツマンシップってなんなのだろう考えちゃいます。

ioc president thomas bach press conference
Toru Hanai//Getty Images

私はアスリートたちのストイックさや、全身で全力で挑戦する姿勢に心を動かされ、明日から頑張ろうと励まされた事が何度もあります。でも「より速く、より高く、より強く」という男性中心的なモットーの裏に隠れてしまった、他の讃えられるべき身体性にも、もっと目が向けられたらもっといいなと思うのです。より多様な価値観から、あらゆる人の身体や人生を讃えたいのです。

だってひとりひとりの人生には、それぞれ違ったその人なりの感動があるのだから。

だからこそ政治家や社会的強者から身勝手に一方的に押し付けられる見当違いの「感動」はいらないのです。

オリンピックって、一体なんなのだろう。
そろそろこの巨大スポーツイベントを盲目的に「善」だと信じるの、やめませんか?
(ってもうもはや誰も信じていないかもしれませんね)
 
[加筆・訂正 2021.07.21 トランスジェンダーの方のスポーツ参加にあたって、偏った印象を与えてしまう書き方をしていたかもしれないと思い、加筆修正いたしました。]

【出典】

"Is some Olympic commentary sexist?" BBC NEWS
"See 120 years of struggle for gender equality at the Olympics" The World
"Women & the Olympic Games: "uninteresting, unaesthetic, incorrect" SBS
『オリンピックという名の虚構―政治・教育・ジェンダーの視点から』ヘレン・ジェファーソン・レンスキー (著)