毒家族に生まれてVol.6【前編】~わがまま薬物降板女優ジュディ・ガーランドをクスリと仕事漬けにした毒母~
アカデミー賞で注目『ジュディ 虹の彼方に』で描かれなかった、伝説的ハリウッド女優の虐待され続けた哀しき人生。
「スウィートハート!」 5番目の夫が家の壁をよじ登り、鍵のかかったバスルームの窓から見つけたのは椅子を背に項垂れた妻の姿。その両腕は生気を失い肩からぶら下がっていた。
1969年6月22日、偉大な歌手ジュディ・ガーランドが睡眠剤の過剰摂取で47年という短い人生に幕を下ろした。ロンドンの貸家のバスルームで、椅子の上で項垂れる姿で発見された彼女は羽を休めた鳥のようだったという---。
わずか2歳で舞台に立ち、度重なる自殺未遂と薬物騒動を起こしながらも不死鳥のように『オズの魔法使』『スタア誕生』『ニュールンベルク裁判』といった名作で輝かしく蘇り、今なお伝説的女優として語り継がれる天才ジュディ・ガーランドは、お騒がせ女優としてゴシップにまみれたまま、薬漬けの人生を薬で終えることになった。だが、その背景には10代の娘を馬車馬のように働かせるため薬物を与え続けた実母の存在があった。
稼ぎ手にさせられた天才少女
1922年、のちにジュディ・ガーランドとなる女の子フランシス・ガムは一家の末娘として生まれる。ヴォードヴィル(客前で行う演芸やショー)で生計を立てていたピアノ弾きの母エセル・ガムと、歌手の父フランクは3人の娘達を舞台に引っ張り上げ芸をさせた。
7歳上のスージーと5歳上のジミー、そして“ベイビー”と呼ばれたフランシスの3人姉妹が揃って見せる歌やダンスは愛らしいもので、のちに揃って1929年には映画出演も果たし、「ガム・シスターズ」と名乗ることになるのだが、末っ子のフランシスは舞台に立つやいなや姉達とは比較にならない才能を見せた。
(写真)1926年の「ガム・シスターズ」。中央が“ベイビー”と呼ばれた3歳のジュディ。左が2番目の姉“ジミー”ことドロシー、右が“スージー”こと長女メアリー
家族を分裂させても娘を売り出す
彼女の歌声はずっと年長の子供に聞こえ、年上の姉と見事なハーモニーを奏でることができたかと思えば、5歳になる頃には両親の演出に口を出し始めたという。そんな早熟の天才は12歳になるとあまりに大人びた歌唱テクニックがゆえ、追い越してしまった姉達の未熟さと噛み合わなくなってしまった。
「1人だけ別次元」。どこで歌っても目立つフランシスは評判となり、母は末っ子だけで商売しようと父親を説得し始めた。父は猛反対。フランシスだけを贔屓することは、家族の不和を生むと考えたからだ。でもそんな意見は母にとって聞く価値のないものだった。夫婦仲はとうに冷え切っていたからだ。家族を分裂させてもフランシスで商売するためなら構わない―――。そう考えるまでには理由があった。
(写真)1920年代と見られる3人。LAの舞台にて
貧しい芸人の子
母エセル・ミルンは貧しい家で育った。エセルの両親も楽器と歌で生計を立てる芸人だったが、父親はひどいアルコール依存症となり、家族に暴力を振るい、生活費もろくに入れない。そのため8人兄弟の一番上の長女エセルは親に学校を退学させられ、10代半ばで家族のために働かざるを得なくなってしまったが、幸い芸が身を助けた。母に教えられたピアノの才能があったエセルは退学する頃には教師として生徒を持てる程の実力があり、ある程度稼ぐことができたのだ。しかし、きょうだい7人と母の8人家族の生活費としては到底足りず、母とエセルはしょっちゅう喧嘩になったため、仕方なく稼ぎを増やすため劇場でピアノ演奏も始めた。そこで出会ったのがいくつもの州を渡り歩いてきた流れ者の歌手フランク・ガムだった。
(写真)1940年 中央が母エセル
ビジネスありきの結婚
2人とも雇われだったが、フランクの人気に目を付けたエセルは「2人でやりましょう。その方が儲かるから」と声をかけた。それは同時に、きょうだいたちの食い扶持を稼いでもらうための共稼ぎ提案でもあり、なかば孤独な男性を婿入りさせた形の結婚でもあった。劇場の女優達を含め女性を虜にしていた身長178cmの長身のハンサム歌手が、ピアノは弾けるが身長は150cmにも満たず、さしてパッとしないエセルをパートナーとして選んだのにはこんな背景があったのだが、フランクがビジネスライクな結婚をすんなり受け入れたのにはもうひとつ隠された理由があった。
(写真)1938年 母エセルとジュディ
隠された夫の秘密
彼はホモセクシュアルだったのだ。当初は伯父が経営する劇場で歌っていたが、基本的に同性愛者であったフランクは噂が流れると追い出され、その後も劇場に雇われてはバレたら逃げるの繰り返し。そんな彼にとって提案された妻の実家での家庭生活は、寒風吹きすさぶミシガンで、逃避に疲れた末に見つけた安住の地だった。
仕事で繋がっていれば、セックスではないところで結婚生活を維持できる。そう踏んだフランクはエセルと仲よく暮らし、肉体関係が定期的な義務であったとしても、女の子が立て続けに2人生まれるくらいではあった。安定したフランクは歌手としてだけでなく、劇場支配人として仕事するようになり、経済的にも豊かになった。
(写真)映画のセットでエセルとジュディ
しかし3人目の子供を身籠ったとき、エセルは夫のセクシュアリティに気付いてしまう。少しおかしいとは思いつつずっと見て見ぬ振りをしてきた夫の行動。そこにお節介な人の噂が耳に入ってくるようになったのだ。自分の結婚生活を振り返り絶望するエセル。中絶が犯罪だった当時、彼女は流産するべく「9千回は飛び跳ねた」という。自分が重大な秘密を隠したまま結婚した罪を脇に置き、フランクは妻の行動を必死で止めた。「まだウチには男の子がいない。きっとその子は男の子だ。君も男の子は欲しいだろう?」 女性に参政権が認められたばかりの時期の説得材料として、一家を将来支える跡継ぎとしての男児の誕生はぴったりだった。
(写真)「ガム三姉妹」左から長女“スージー”ことメアリ・ジェーン、次女“ジミー”ことドロシー・ヴァージニア、三女“ベイビー”ことフランシス(のちのジュディ) 1935年
生まれるはずのなかった子
1922年、母が生むことを望まなかったその子は生まれた。 「残念なことに」女の子だった。
せっかく産んだのに! 絶望するエセル。その分フランクはその末娘をケアするように気遣いながら育てることとなった。のちにジュディ・ガーランドがゲイ男性に親近感をもつことになったのは、父を「変態」と罵った母と世間への怒り、そして父が本当に気を許してつるんだ仲間は男性だけだったからだと分析されることもある。それはこんなジュディの発言が残されているせいもある。
「私が男だったらよかったのにって思ったこともあるわ。そうすれば本当の意味で父の仲間になれるから」
(写真)ジュディ15歳のとき。映画『Broadway Melody Of 1938』(’37)より
産んだ意義をショービズに求めた母
2歳で舞台に引っ張り出したのはエセルだった。産むはずのなかった子。ゲイの夫に産むことを強制された子。ただ食い扶持を減らすだけの目障りな存在。ならば家計の役にでも立ってもらわねば......。徹底的に割り切り、ビジネスライクな母娘の繋がりが生まれた瞬間だった。だからこそ苦い思い出の詰まった末娘にどうやら大きなニーズがありそうだと気づいたときに溜飲を下げたのだ。
この子をスターにしよう。そうすれば産んだ甲斐がある---。
(写真)『Love Finds Andy Hardy』(’38)で共演したミッキー・ルーニーとは同じ子役として友人となり、その友情は生涯続いた
娘を仕事漬けにするために薬漬けにした母
「母のことはずっと憎んでいたわ」。
この言葉通りジュディ・ガーランドとしてMGMからデビューする前、フランシスだったときから母エセルとの間には確執が横たわっていた。
ジュディが13歳のときに父フランクが亡くなるとエセルのコントロール・アディクションはさらに勢いを増す。はた目からはステージママとそのサポートを全面的に注がれる天才子役の熱い関係に見えて、母娘には最初から愛情とリスペクトがほぼ介在しなかった。それを裏付ける残酷なエピソードは枚挙に暇がない。
(写真)1939年『オズの魔法使』の宣伝写真
働かせるための薬物
まず2歳で耳の病気になったとき、金がかかるからと麻酔なしで手術を受けさせた。泣き叫ぶ我が子の頭を手術台に押し付けたのは母エセル。この時の衝撃はジュディ・ガーランドとして亡くなるまで一生涯、フランシスに痛みへの過度の恐怖感を植え付け、鎮静剤中毒を引き起こしたと言われている。5歳で髄膜炎を患ったためカリフォルニアの病院に向かったときも母は親としては考え難い行動に出た。娘を売り出すための情報収集とコネクションづくりに精を出したのだ。紆余曲折を経たものの、その甲斐あってかスタジオMGMに見習い子役として登録すると、今度はスタジオからのハラスメントに手を貸した。猫背と思春期特有のふくよかさを「デブでハンチバック(背むし)に魅力はない。痩せろ」と侮蔑した社長ルイス・B・メイヤー(児童性愛者として有名)に怒るどころか、売れるための進言と素直に受け止め、当時痩せ薬とされたアンフェタミン(※覚せい剤として乱用される)をスタジオ医師に言われるがまま娘に飲ませた。当然ジュディは眠れなくなる。すると、睡眠薬を飲ませる。こんな様子だった。
見た目を貶された天才女優
今でも権力ある男性が女性の容姿を貶めることでマウントを取ろうとすることは日常茶飯事だが、社長やハリウッドの男たちだけでなく、次第にエセルも娘フランシスの容姿を貶すようになり、ジュディ・ガーランドは生涯容姿のコンプレックスを克服できず、自己肯定感の低さから極度の緊張、そして恐怖症に苦しんだ。
「私が痩せないとあなたも離れていくのね」
のちに離婚することになる3番目の夫シド・ラフト(『スタア誕生』をプロデュースしジュディを再復活に導いた)にこうつぶやいたことがそれを物語っている。
(写真)1960年代のジュディ
容姿コンプレックスによる恐怖症は、舞台前の極度の緊張だけでなく、少し批判されると過剰に反応してしまう癖を引き起こし、周囲にはイエスマンしかいなくなってしまった。イエスマンとはその人を利用しようとするからこそ近づいてくる人たち。それは母エセルも同類だった。薬物の影響もありジュディが癇癪を起すのを必死でなだめる姿は一見、「わがままな子どもに振り回される哀れな母親像」に見えたが、それは激しくハリウッドで傷ついた娘の心情よりも、どんなに子を甘やかす愚かな親に見えようとも目の前の仕事をこなさせるほうがずっと重要だったからだ。その証拠に、ハリウッドにおえるエセルの評判は「気遣いの人」であり「コミュニケーション力の高い人」というものだった。他人の気持ちを汲み、操ることに長けていたのだ。
(写真)1941年『美人劇場(Ziegfeld Girl)』
仕事でしか繋がれない母と娘
17歳で『オズの魔法使』(‘39)がヒット。スターの仲間入りを果たし、一家の大黒柱となったジュディの“わがまま女優”っぷりを必死でなだめ、最終的に周囲の希望通りに仕事をさせる。それは通常の母娘の関係性ではなく、完全にマネージャーと女優、仕事の発注者と受注者のそれであり、周囲に取ってもエセルは決して母ではなかった。
『オズの魔法使』で“西の魔女”役でジュディと共演し、自身も子役から女優になったマーガレット・ハミルトンは憐れむようにこう語っている。「あの頃、アイダ・カヴァーマンとロジャー・イーデンスの2人以外、彼女を取り囲む人物は全員彼女の敵だったわ」。この頃、ジュディは母を信用することを完全にやめていた。薬物を強制するせいもあったが、夫との関係がとっくに終わっていたこともあり、公然と不倫関係を続けていたせいでもある。エセルは病気で下半身不随になった従姉妹の夫と長年の不倫関係に陥っていたのだ。
(写真)23歳の頃と思われるジュディのポートレート
いっぽうでジュディの歌唱力だけでなく、一回聞いただけで数ページ分のセリフを覚えられる能力を見出し、羽ばたかせた脚本家カヴァーマンと『オズの魔法使』に最初からジュディを起用すると決めていた作曲家兼プロデューサーのイーデンス(※)の存在は救いとなっていた。2人はジュディからの信用を得、本当の意味での理解者だった。とくにイーデンス(彼もバイセクシャルだった)は、ジュディは歌うことも踊ることも、ストレートプレイもお手の物、今となっては主流の「なんでもできる女優」の元祖となる天性の才を真剣に伸ばすことを考えていた。
※ 『オズの魔法使』ではクレジットされていない。3度オスカーを獲得。10年後にミュージカル映画『イースター・パレード』(‘49)でジュディを起用
ペドファイルと手を組んで
ところが、既得権益を逃すまい手を組んだ母エセルとMGM社長ルイス・B・メイヤー、そして彼の腰巾着で悪名高い小児性愛者(というよりも性的虐待者)のアーサー・フリードが手を組んだおかげで、2人の素晴らしい友人は彼女から引き離されてしまった。
『Show Boat』(‘51)でもイーデンスの仕事の手柄を盗み取ったアーサー・フリードのペテン師っぷりは有名で、『オズの魔法使』のプロデューサーとして語られることはあるが実際は仕事をしておらず、映画にもクレジットされていない。同作品のキャスティングと称して子役の少女たちに性的虐待をしていたと見られ、その際シャーリー・テンプルが目の前で性器を露出されたエピソードは有名だ。
しかし、MGMの幹部たちは彼女をスターにするつもりがあまりなく、ジュディを低く評価し給料も安く設定していた。その証拠に大作で少女スターが必要になると美少女ディアナ・ダービンや、ずっと年下でライバル会社所属のシャーリー・テンプルを高値で起用していたため、エセルはメイヤーやマネージャーたちを好ましくは思っていなかった。そのため、この奇妙な連合軍は「敵の敵は味方」論を駆使して解釈したところで納得いくものではない。このことからメイヤーもしくはフリードが、娘への性的行為を保護者として許可することと引き換えに『オズの魔法使』への起用をエセルに提案したのだと残酷な推測をする伝記作家もいる。
(写真)1940年、ジュディの誕生日にて。左がエセル、中央がルイス・B・メイヤー
娘の才能を認めなかった母の毒
なぜステージママが天才少女を人身売買するようなことを? 当然いぶかしがる人もいる。
ここはエセルは娘ジュディの才能を認めていなかったとすれば納得がいく。娘の才能の本当の価値を見極める能力がなかったため、MGMの幹部たちが下す娘の容姿への評価を鵜呑みにしてしまった。不運にも当時の幹部たちは揃って見る目をもっておらず、「どこにでもいる平凡なお前の魅力は歌だけだ」と刷り込み、そのせいでダンスも演技も実は一流だった大天才の少女は、理不尽なことにスタジオの中でも外でも中途半端なアイドル的な扱いをされてしまった。それを傍で見ていた姉のジミーは皮肉を込めてこう表現している。
「メトロ(MGM)ようなところでは大抵の人たちが才能を見抜けない。そういう人たちは(タレントが)どう見られるかだけを気にしてしまい、そのためには何でもしてしまうのよ」
―前編了―
>>逃げるように結婚。そして出産後さらなる悲劇が待ち受ける……。毒が連鎖する後編はこちら
(写真)1942年『For Me and My Gal』でジーン・ケリーと
【参考文献】
『Me and My Shadows』by Lorna Luft, Pocket Books Autobiography 1998
『Judy Garland A Biography』by Anne Edwards, Taylor Trade 1974
『Get Happy - The Life of Judy Garland』 by Gerald Clarke, Delta 2000