【A】Audrey Hepburn /オードリー・ヘップバーン
本名はオードリー・キャスリーン・ラストン。第二次世界大戦中、オランダのアーネムに住んでいた頃はドイツ軍の占領下にあったため、イギリス風の「オードリー」という名を心配した母エラが自らの名前をもじって、一時的に「エッダ・ファン・ヘームストラ」としていたことも。
【B】Birthday/誕生日
1929年5月4日、ベルギーブリュッセルで生まれたオードリーは両親がかけるクラシック音楽が好きなおとなしい女の子だった。ベルギーで生まれ、母親の実家はオランダ、さらにイギリス、オーストリア系の父を持ち、イギリスの市民権もあったオードリーは自然に英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語が話せるようになっていった。
【C】Career/キャリア
幼いオードリーの夢は9歳から始めたバレエで大きな舞台に立つこと。当時は戦時中で誰もが貧しい暮らしを強いられた。オードリーは生活のためにギャラのいい舞台に出演し始める。やがて1951年、主演舞台「ジジ」でオフブロードウェイ初めての役者に贈られるシアターワールドアワードを受賞。オードリーをジジ役に抜擢したのが作者のコレット女史。彼女は『モンテカルロへ行こう』(写真)の撮影のためにモナコのオテル・ド・パリを訪れていたオードリーを見初め、「私のジジがいる!」と狂喜したらしい。
【D】 Debut/デビュー
オードリーの人生が一変したのが『ローマの休日』(写真)。ウィリアム・ワイラー監督はオーディションにやってきた当時は無名の新人だったオードリーをヒロインに大抜擢。起用理由はカメラテストが終わってほっとしたオードリーが見せた笑顔が素晴らしく、監督をはじめ、スタッフ全員が魅了されてしまったから。オードリーは映画初主演のこの作品で、アカデミー賞主演女優賞を受賞する。
【E】Elizabeth Taylor/エリザベス・テイラー
『ローマの休日』にオードリーが起用されなかった場合、主演はエリザベス・テイラーの予定だった。オードリーは『クレオパトラ』の候補の一人だったが、もちろん、こちらはエリザベス・テイラーの代表作。テイラーはオードリーが演じた『マイ・フェア・レディ』(写真)のイライザ役を熱望していたこともあった。後に二人は親友の間柄になり、オードリーが亡くなった時、テイラーは献花を送っている。
【F】Fashion/ファッション
『ローマの休日』で一躍、スターとなったオードリーが次の主演作に選んだのが巨匠、ビリー・ワイルダー監督による『麗しのサブリナ』(写真)。この作品でファッションアイコンとしての地位を確立したオードリー。彼女が着る服、ヘアスタイル、メイク、すべてが注目されるようになる。ここでオードリーが着用した細いシルエットのパンツが以降、サブリナと呼ばれるようになった。『昼下がりの情事』ではオードリー演じるヒロインがスカーフを頭に巻いたスタイルがヒロインの名にちなみ、アリアーヌ巻きと呼ばれ、大流行。『ローマの休日』のウエストを絞ったフレアスカート、『ティファニーで朝食を』『シャレード』のクラシカルなトレンチコートなど、彼女の作品にはいつの時代もお手本にしたいスタイルが溢れている。
【G】Givenchy /ジバンシィ
オードリーのファッションに大きく影響を与えていたのがユベール・ド・ジバンシィ。『麗しのサブリナ』をはじめ、ジバンシィが衣装を担当したオードリー映画は計8本。フレッド・アステアと共演した『パリの恋人』はこれまでになくオードリーのファッションをフィーチャーした一作で、ジバンシィは香水デザイナーとしてもクレジットされている。劇中、オードリーは彼が彼女のために作られた香水をまとって演技している。ジバンシーが初めて手掛けたフレグランスをオードリーはとても気に入り、冗談で「私以外は使用禁止」と言ったところから、フランス語の「禁止」を意味する「ランテルディ」と名付けられた。プライベートでは、最初の結婚式のウエディングドレス、二度目の結婚式のミニドレスもジバンシィのものとして知られている。
【H】Husband/夫
オードリーは二度、結婚している。最初の夫は俳優のメル・ファーラー。グレゴリー・ペックが開いたパーティーで出会った二人は1954年に結婚。舞台や映画でも共演し、メルがオードリーの映画のプロデューサーを務めることもあった。二人の間には長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーがおり、昨年、「ウーマン・イン・ソサエティ」のために来日したエマ・ファーラーはショーンの娘で、オードリーの初孫にあたる。二人目の夫は精神科医のアンドレア・ドッティ。ギリシャの遺跡を巡る旅で恋に落ちた二人は1969年に結ばれるが、13年で破局。二人の間には次男、ルカ・ドッティがいる。以後、オードリーは生涯、独身を貫いた。最後をみとったのはオランダ人の俳優でプロデューサーのロバート・ウォルターズ。これまでオードリーを従わせてきたタイプの夫たちと違い、オードリーを長年、支え続けた。「彼は私のために存在します」とまで言っていたオードリーだが、結婚はしなかった。
【I】Influence/影響力
オードリーが映画界に与えた影響は数知れない。なかでもアメリカ映画を代表するキャラクターの一つといえるのが『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリー。映画の冒頭で彼女がまとっているジバンシィのリトル・ブラック・ドレスは映画史上最も有名なドレスといわれている。ヘンリー・マンシーニ作曲の「ムーン・リバー」をオードリーがギターの弾き語りで歌うシーンも有名。
【J】 Japan/日本
日本とも縁が深かったオードリー。『緑の館』(写真)では日本人俳優、早川雪舟と共演している。71年、CMの撮影でオードリーの自宅を訪れた加藤タキさんは以降、長く友人関係を育んだ一人。いくつか届いた手紙はいつもブルーの便せんにブルーのインクで書き出しは必ず「Thank you」と感謝から始まったという。加藤さんによれば、素のオードリーはジュエリーどころか時計すら身に付けず、付けてもパールのピアスくらいだったとか。自分に似合うか、居心地がよいか。オードリーは自分自身を知っているからこそできるファッション理論を貫き、逆にそれを人に押し付けることはしなかったという。
【K】Knot/結びつき
オードリーは共演者やスタッフとの結びつきをとても大切にした。『シャレード』(写真)で共演したケイリー・グラントは記者から「クリスマスプレゼントに欲しいものは?」と聞かれ、「欲しいものはオードリーとの次回作に決まってるじゃないか」と答えたとか。大人のユーモアを持ち、洗練された紳士であるケイリー・グラントは女優を美しく引き立てることにかけては右に出る男優はいないと評されるほどだった。共演中、彼は緊張しがちなオードリーに「もっと自分に自信を持った方がいい」とアドバイスしたそう。
【L】Lucky Number/ラッキーナンバー
オードリーが好きな番号は55。初主演作となった『ローマの休日』で彼女が使っていた楽屋のナンバーである。それ以来、彼女は「55」という数字が自分のラッキーナンバーだと信じていたらしく、『ティファニーで朝食を』『パリで一緒に』(写真)でも、55番の楽屋を使用。縁起をかつぐ性格だったのか、『ローマの休日』の撮影で使用したドレスを“ラッキードレス”と呼び、アカデミー賞の授賞式でも着用した。
【M】My Fair Lady/マイ・フェア・レディ
下町で育った花売り娘が美しい女性へと変貌を遂げる『マイ・フェア・レディ』。ミュージカル仕立てのこの作品で、オードリーの歌は吹替で、実際に歌っているのは「最強のゴーストシンガー」として知られるマーニ・ニクソン。オードリーの歌声が使用されているのは「いまに見てらっしゃい」「踊り明かそう」の一部と「スペインの雨」の掛け合いのわずか3シーンのみ(ちなみに『パリの恋人』は全曲吹替なし)。『マイ・フェア・レディ』はアカデミー作品賞を受賞するが、オードリーはノミネートすらされなかった。男優賞のプレゼンターを務めたオードリーにヒギンズ教授役でオスカー像を手にしたレックス・ハリスンは「オスカー像を半分に切って、君と分けようか」と囁いたとか。
【N】Number/名曲
名曲の多いオードリーの作品。作曲家ヘンリー・マンシーニは全4作品に関わったが、アカデミー賞で歌曲賞、劇・喜劇映画音楽賞を受賞した『ティファニーで朝食を』もその一つ。名曲「ムーン・リバー」はグラミー賞で最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀編集賞の3つの賞を受賞した。マンシーニ曰く、ピアノの前に座り、オードリーの姿を思い描いたら、ぱっと浮かんだメロディーなのだそう。
【O】Onlyone/ただひとつ
生涯で28作品に出演したオードリーにとって、ただひとつの西部劇が『許されざる者』(写真)。さらに『華麗なる相続人』は唯一のR指定作品。
【P】Pretty/美しさ
「私は自分のことを美人だと思ったことはありません」と公言していたオードリー。痩せている。胸がない。背が高い。足が大きい。歯並びが悪い。顔が四角い。鼻孔が大きい。これらすべてがコンプレックスだった。デビューしたての頃は胸に詰め物をしたこともあったそうだが、彼女の出現で、美人女優といえば、豊満な肉体の持ち主というそれまでの常識は一変する。彼女の美の秘訣は「欠点から目をそらさず、正面から向き合い、欠点以外に徹底的に磨きをかけること」。
【Q】Quiet/静かな生活
夫メル・ファーラーがプロデュースした『暗くなるまで待って』を最後に、ハリウッドを去ったオードリー。息子ショーンとの時間を大切にするため、映画とは一切、関わらず、スイスのトロシュナ村に購入した家で静かな生活を始める。13年間の結婚生活で4度の流産を繰り返すことになるオードリーは、ショーン妊娠時から大事をとって、一年、休養。やっと授かった息子のために、なんとか結婚生活を維持しようと努力し続けたが14年で破局した。幼い頃に父が家を出、母と二人暮らしだったオードリーにとって普通の家族の生活こそが一番、大切なものだった。
【R】Remembrance/記憶
息子ショーンは母オードリーと過ごした日々をこう振り返っている。「母とは良い思い出がたくさんあり、どれか一つを上げるのは難しいです。それは一緒に過ごした時間の断片を集め、描き上げた絵のようなもの。音や歌、お気に入りのレコード、匂い、ある場所の特別な香り、それらすべてが重なって素敵な思い出です。私はその思い出を一生、胸に抱き続けるでしょう」
【S】Sir Thomas Sean Connery /ショーン・コネリー
1979年、子育てがひと段落したオードリーは『ロビンとマリアン』(写真)で映画界に復帰、ショーン・コネリーと共演する。この作品は撮影期間が子供たちの夏休みに当たったことや、次男のルカがジェームズ・ボンドの大ファンだったことも出演のきっかけになった。ロビンフッドとその恋人マリアンのその後を描いた物語で、二人は『暗くなるまで待って』以来、実に20年ぶりの共演を果たす。ちなみにオードリー最後の出演映画『オールウェイズ』の天使役は当初、ショーン・コネリーが演じるはずだったが、スケジュールが合わず、オードリーに変更になった。
【T】They All Laghed/『ニューヨークの恋人たち』
映画界に復帰したオードリーが主演した映画は3作。1981年に製作された『ニューヨークの恋人たち』(原題:They All Laghed)はオードリー最後の主演映画。製作総指揮を務めているのは長男ショーンで、彼は俳優として出演もしており、オードリーと共演を果たしている。