誰もが教科書で習うオーギュスト・ロダン。彼の作品には“愛人”と呼ばれたカミーユ・クローデルや才能が多分に反映されている。しかし、現在カミーユは愛人ではなく、ロダンの“共同制作者”と呼ぶことが定着している。なぜなら、それほどまでにロダンは彼女のアイデアから作風までを見事に盗み、奪い取っていったから……。それは現代でいえば完全なパワハラとセクハラに当たる。23歳年上の師であったロダンと複雑な恋愛を繰り広げすべてを盗まれたカミーユはまた、複雑な家族の愛情と怨みが交錯した人生だった。
>>Vol.1 ジャン=ミシェル・バスキア編
>>Vol.2 ルイーズ・ブルジョワ編
(写真)映画『カミーユ・クローデル』(’88)
母に疎まれた長女
1864年カミーユ・クローデルは4人兄弟の2番目に生まれた。土地管理をする役人だったルイ=プロスペールと医者の娘ルイーズ夫妻の間に生まれた長男は生後間もなく亡くなっていたため、カミーユはほぼ第一子として育った。
しかし、母はクローデルを産んだときはまだ、長男を亡くした哀しみから立ち直れず、カミーユを愛することができなかった。そのうえ夫の愛情を奪っていくように感じたのだった。
母の悲しみはしばらくすると癒えるが、今度はまるで当て付けのように新たに生まれた妹のルイーズに愛情を注ぐようになり、結局カミーユは母に疎まれ、父親の愛情だけを受け育つことになる。教育と経済的支援に形を変えた父の愛情は、カミーユの芸術家の才能をますます伸ばしていく。
すると10代の早い段階で著名な彫刻家アルフレッド・ブシェに見いだされ、学校で学ぶことを強く進言される。早熟の天才だったカミーユは不運なことに、女性だった。当時ボザール(芸術高等専門学校)などの名門校はほぼ男性のみに入学を認めており、カミーユは仕方なくわずかであったが女性の入学枠のある学校に通うことになった。1881年、14歳のときカミーユのため父を残し一家はパリへ移住する。
(写真)『カミーユ・クローデル』(’88)より。カミーユを演じたのはイザベル・アジャーニ。ロダン役はジェラール・ドパルデュー
しかしこの才能はさらに母との溝を深めた。世間に認められていく憎き長女はますます父への依存がひどくなり、母ルイーズはより次女への愛情を偏らせていった。
姉妹を引き裂く両親の愛情。家庭内の派閥争い。不穏な空気を生まれたときから目前で見せつけられることになったのが、弟のポールだ。
外交官でありながら姉からの影響を多分に受けたことで詩人と二足の草鞋を履き文壇のスターとなったポールは、自分とは真逆の、あるいは並みの男性以上の向上心と熱情をもつ姉に恋心にも似た憧れを抱くようになる。
(写真)『カミーユ・クローデル』(’88)より
娘の才能を許さない母
女性であることの苦々しさを感じつつも芸術に生きる道を見つけたカミーユだが、母はそれを決して許さなかった。長女の他の子どもとは違った破天荒な気性、情熱のためなら家族をパリに引っ越させるほどの行動力が日頃から気にくわなかった母は、入学も芸術への道も理由なく猛反対した。まるでアルテミジア・ジェンティレスキのごとく、女の癖に裸体をモチーフとし男の世界で生きるなど、自分への侮辱でしかない……。こうしてクローデルの中でますます湧き上がる母への怒り。決して交わることのないふたりの女性は、決別の道をたどる。
(写真)カミーユの代表作「分別盛り」の一部。去っていく男性を引き留める女性の姿を表している
怒りを動機に母の妨害を振り切り入学した先で、天才的な能力を発揮した彼女の才能を、当時芸術界のドンとなっていた彫刻家が発見する。それがパリを離れてフィレンツェに移住しようとしていたブシェから彼女の教育を託されたオーギュスト・ロダンだ。
41歳のロダンは、学生とは思えないほど生々しく、男性作家のように力強く、同時に何物にも代えがたい繊細さを持ち合わせていた、官能的な肉体を持ち合わせていたモデルとしても有能な18歳のカミーユを助手として雇う。
ロダンの下半身のだらしなさと、権力を笠に着た横暴さを知っていた4歳年下の弟ポールは、それを苦々しさをもって甘受したが、彼が恐れた通りカミーユにとって徹底的な搾取と蹂躙の始まりとなる。
(写真)フランスを代表する詩人で仏大使として日本に駐在したこともあるポール・クローデル
身体と才能を振り回した師匠兼愛人・ロダン
ポールは彼女の情熱を尊敬しつつも、自分と異なり世間の規範をいつも逸脱し、家族に迷惑を掛ける姉に憎しみを抱いていた。そのうえロダンとの愛人関係は、世間のゴシップの的となっていたことでさらに一家の名に泥が塗られていた。
そこには決して家族から愛されることのなかった家族への復讐心も少なからず動機になっていたため、一定の同情はできたが、結局のところ愛情を受けていたきょうだいには十分な理解ができず、長女カミーユの行動は思春期の延長にしか見えなかった。そんなときカミーユにとって衝撃的な事件が起きる。
流産を繰り返してまで15年もの間尽くし続けたロダンが、妻ローズを選んだのだ。妻と離婚しカミーユと結婚すると仄めかしていたロダンの裏切り。
すでにカミーユのアイデアと才能は、ロダンに長い間利用され取り込まれており、専門家でもロダンとカミーユの作品を見分けることは難しくなっていた。その状態でロダンと別れることは、カミーユの芸術界での死を意味しかねなかった。ロダンの亡霊を振り払うべく、必死で作品を作り続けた。そうして窮地に追いやられていった彼女は次第に精神のバランスを崩していく。
(写真)アトリエで作業する実際のカミーユ・クローデル
本物の天才の孤独な最後
1913年、訪れた父の死。唯一どんなときも味方になっていた父が死んだ。以前から精神的に不安定だったカミーユはついに限界に達し発狂してしまう。
その後ポールは姉を当時から環境の悪さで悪名高い精神病院に強制入院させ、閉じ込める。度々見舞いに顔を見せはするが、病院側が退院を勧めても決して許さなかった。
幼いころから母に疎まれ、辛い思いをしてきたことを頭では理解していても、しょせん末っ子長男で大事に育てられた彼にはさんざん迷惑をかけてきた姉をどうしても赦すことができなかったのだ。
もし彼女が女性でなかったら師を優に超える彫刻家として名を残したと言われるカミーユは、人の愛憎に振り回され、その後30年もの強制収容を経て79歳で亡くなった。
残された作品は見直され現在は世界中の名だたる美術館、そして彼女自身の名前のついた美術館にまとめられている。愛情と才能を搾取され続けた女性の生きる残り火は、ロダンのコピーと言われたその作品に確実に宿っているはずだ。
(写真)精神病棟に入ったいた頃の写真
【参考文献】
「Dossier Camille Claudel」
「CR Fashion Book」‟CAMILLE CLAUDEL'S STRUGGLE FOR FREEDOM”(2018.11.26)
(写真)カミーユ・クローデル作「分別盛り」(1893)