日本に住む外国人や、外国にルーツがある人に対して、あなたはどんなイメージをもっている? 人種差別や偏見といった社会問題は、実は日本にも存在している。それが一般的に気付かれにくい背景には、“自分の中に差別的感情がある可能性”の受け入れ難さにあるかもしれない。臨床心理士のみたらし加奈と考える、Black Lives Matterから学ぶべきこと。
日本から見た「Black Lives Matter」
黒人に対する人種差別的な行動や暴力の根絶を訴えるため2013年より始まった「Black Lives Matter」運動。2020年5月にアメリカのミネソタ州で起こった悲痛な事件ーアフリカ系アメリカ人であるジョージ・フロイド氏が警官に首を圧迫され、死亡したーをきっかけに、世界中で「Black Lives Matter」という言葉やデモが広がりました。平和的に行われたデモの他にも、「暴動」と呼ばれるようなものや警察隊との衝突もあり、SNSや報道を介して多くの人の“痛み”が可視化されました。
日本でも、平和的なBlack Lives Matterデモが行われ、約3500人の参加者が行進をしました。しかし多くの人々が声を上げる一方で、日本のマスメディアの姿勢は「対岸の火事」のように見えることも。SNSを見ていても「日本にいると差別って分からないかもしれないけれど……」というように、あたかも「日本には差別がない」という前提を持つ意見も散見されました。
人種差別、4つの分類
Black Lives Matter運動で問題として取り上げられていたのは、大まかな意味での「人種差別」だけではありません。「人種差別」には、大きく分けて4つの分類があると言われています。まずは「個人の人種差別」、そして「対人的人種差別」と呼ばれるものです。
「個人の人種差別」というのは、いわゆる無意識に行われる差別であり、「対人的人種差別」とは目の前の人に対して(無自覚・自覚的問わず行われる)“表現された”差別を指します。
その2つの他には、Black Lives Matter運動でも大きく取り上げられていた「制度的人種差別」や「組織的人種差別」があります。「制度的人種差別」というものは、社会に広がる人種的な偏見が、国の制度に反映されていることを指し、「組織的人種差別」は、組織や会社における構造的な人種差別を指しています。アメリカ全土に広がったBlack Lives Matter運動では、既にある制度の見直しを求める声も多くあげられました。
日本は「単一民族」なの?
では日本では、それら4つの人種差別は本当に存在しないのでしょうか?
まず私の見解を言わせてもらうと、100%「NO(存在する)」です。確かに日本で教育を受ける環境で、人種差別について深堀りするような機会はなかなかありません。私が知る限りでは、人種差別についての授業は、世界史のクラスで扱われた「公民権運動」についてでした。しかしその内容はあくまで、「歴史のなかで行われた」という認識のみで、完全に「過去の負の遺産」としての立ち位置です。また日本におけるアイヌ民族の歴史や、韓国や中国にルーツがある人に対しての差別や偏見についてはどうでしょうか?
「I have a dream」で知られる、公民権運動の指導者として活躍したマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)。
“ハーフ”、“ガイジン”、「外国人可」、これらの言葉は誰かを疎外していないか?
日本では、両親のどちらかに外国のルーツがある人のことを、「ハーフ」と呼ぶ風潮があります。「ハーフ」とは直訳すると「半分」という言葉であり、そこには肯定的な意味合いを含む場合もあれば、否定的な言葉として扱われることもあります。「ハーフ」という言葉は英語ではありますが、実は英語圏においては「ミックス」や「ダブル」という表現が広く使われています。2つのルーツを受け継ぐということは、決して「半分」になるわけではなく、"2つの良さを持っている”という意味合いを重視しているのです。当事者が「ハーフ」という言葉を肯定的に使っていない限り、私自身は「ミックス」「ダブル」という表現が適切ではないかと考えています。
意図せずとも“差別的”になる場合も
他にも例えば、外国人に対する「外人」という表現も、差別的な意味合いが含まれていると思います。また不動産によっては、「外国人可」という表記を敢えて載せている場合もあります。「外国人だと思われやすい外見」を持つ人が職務質問を受けやすい、また例就職活動において「ルーツ」によって合否を判断されてしまうケースも、現実にはあるのです。私自身も「外国人だと思われやすい外見」を持ち合わせている部分があり、それによってクライエント(カウンセリングを受ける人)に「ガイジンに日本人の心がわかるのか!」と怒鳴られたこともありました。
もちろん“悪意の含まれた差別”に関しては、徹底的に闘っていく姿勢を見せていますが、例えそこに悪意が含まれていなかったとしても、言われた側が疎外感を感じたり、否定的なニュアンスを受け取ったりした時点で、「差別」になり得るのではないでしょうか。
「〇〇だからこうである」という思い込みは危険
また「悪意なき差別」というものは、時として「悪意のある差別」よりも扱いが難しい場合があります。「こんなことを気にする私が悪いのかな」と、より一層に当事者を追い込む可能性だってあるのです。きっとこれらの経験は「被差別側」ではなかったとしても、多くの人たちが経験のあることだと思います。いつだって差別の要因になる価値観は、「日本人だから○○が得意」とか「“ハーフ”だから外国語が話せる」とか、そういう“日常に転がっている”ような思い込みから始まっていくのです。
誰もが偏見を持っている
ここ数年、インターネット上でも「差別」という言葉を多く見かけるようになりました。しかし、いくら世の中が「差別」という言葉に敏感になったとしても、差別自体はなくなりません。これは「いじめ」の構造と似ている部分があって、前述の通り差別やいじめには必ずしも「自覚された攻撃性」を含むわけではないからです。だからこそ、すべての人たちがもう一度、自分の価値観について振り返らない限り、この世から差別はなくならないのかもしれません。
私たちはマジョリティでマイノリティ
日本で生きている人たちは、男性だろうが女性だろうが、必ず誰かの「差別の言葉」に晒されています。
私たちはアジア人で、他国にルーツがある日本人で、アフリカ系アメリカ人で、“ハーフ”で、在日外国人で、女性で、男性で、性別に違和があって、異性愛者で、同性愛者で、貧困層で、富裕層で、障害を持っていて、顔の系統や体型が何から何まで他人とは違うのです。
「差別をする側」と「差別をしない側」なんてなくて、誰もが皆、その両方に足を突っ込んでいます。生きてきた背景も考え方も何もかもが違っているからこそ、自分の“知らないもの”が飛び込んできた時に、抵抗感を持つことは当たり前です。また“被差別側”だから「差別」をしない、というわけではないし、「差別をしない」と心に決めていたとしても無自覚なまま分け隔ててしまっているケースもあります。
自分の中の“差別意識”を受け入れる
「差別をする」という言葉はあくまで動詞であって、その人の代名詞ではありません。例えば、あなたが差別をしてしまっていて、それに気がついたり誰かに指摘されたりした時に、自分自身を守る必要なんてないのです。あなたの人格をすべて否定しているわけではないから、ただ「誰かが嫌がる言動」を止めればいいだけなのだと思います。もしそれを「止めたくない」と感じているなら、それはあなた自身の心の中に、何かしらの“傷”があるサインなのかもしれません。
私たちが生きやすい未来は私たちがつくる
アメリカから始まったBlack Lives Matter運動は、アフリカ系アメリカ人への暴力的な人種差別だけではなく、日本における人種差別についても、改めて考えさせられるきっかけになりました。あなたは、どんな世界で生きていきたいと思いますか? 私は、自分に対して攻撃を受けていなかったとしても、差別によって"誰か”が苦しむ世界に息苦しさを感じます。
Black Lives Matter運動は、決して「流行り」なんかではありません。例え大きなムーブメントが収束したとしても、問題が消えない限り、私たちは声を上げていく続けていく必要があるのです。「対岸の火事」ではなく、当事者意識を持って「問題」について考察していくことは、自分たちの生きやすい未来に繋がっていくと信じています。傷付いた人、そして今も傷付いている全ての人にこの文章が届くことを願って。
Information
みたらし加奈
1993年生まれ東京都出身。大学院で臨床心理学の修士課程修了後、病院で臨床心理士として勤務していた経験もある。現在はフリーランスとしてSNSを通してメンタルヘルスの認知を広める活動をしており、今まで受けた相談数は300件以上。メンタルヘルスだけではなくLGBTQについての関心がある。2020年6月30日にメンタルケアに関する書籍『マインドトーク あなたと私の心の話』(HAGAZUSSA BOOKS)を出版。
https://www.instagram.com/mitarashikana/
Text: Mitarashi Kana